大阪高等裁判所 平成6年(行コ)3号 判決 1998年12月15日
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は、控訴人らの連帯負担とする。
理由
一 被控訴人花房に対する請求について
昭和天皇の崩御に伴う職員の懲戒免除および職員の賠償責任に基づく債務の免除に関する条例(平成元年滋賀県条例第二号)三条、公務員等の懲戒免除等に関する法律(昭和二七年法律第一一七号)五条により、被控訴人花房の滋賀県に対する本訴請求の債務は免除されて消滅したから、この点で同被控訴人に対する請求は理由がなく棄却されるべきである。その理由は、左記のほか、原判決の争点に対する判断一(二七枚目裏八行目ないし二九枚目裏五行目)の説示と同一であるから、これを引用する。
1 原判決二七枚目裏八行目「によれば、」の後に「昭和天皇の崩御に伴い、平成元年二月一二日大赦令(政令第二七号)及び復権令(政令第二八号)、昭和天皇の崩御に伴う予算執行職員等の弁償責任に基づく債務の免除に関する政令(政令第三〇号)が制定されて、同月二四日から施行されたこと、」を加える。
2 同二八枚目裏六行目「支出決裁」の後に「(課長補佐による代決)」を加え、同七行目の「あるから」を「あり、これが犯罪行為にあたるとの立証はないから」と改める。
3 同二九枚目裏三行目「三二巻」の後に「二号」を加え、四行目「からしても」を「が右のとおりであるとしても」と改め、同裏五行目の次に次のとおり加える。
「控訴人らは、地方自治法二四二条の二に基づく損害賠償代位請求権は、民法四二三条の債権者代位権とは異なる公法上の訴権であるとする最高裁判例を引用し、本件債務免除条例による債務の免除は、法令の形式的効力からも控訴人らに対抗できない旨主張する。
しかし、前記平成元年政令第二七号及び第二八号の制定、施行は、大赦及び復権の決定は内閣の事務に属すると定める憲法七三条七号の規定に根拠を置く適法なものであって、これが行政による恩赦制度の濫用であると認めることはできないうえ、免除法三条及び五条は、地方公共団体は、大赦又は復権が行われる場合においては、条例で定めるところにより、懲戒の免除等及び現金若しくは物品を保管する地方公共団体の職員の賠償の責任に基づく債務を将来に向かって免除することができる旨を定めるから、滋賀県の債務免除条例三条が免除法三条及び五条の委任に基づく立法であることも明らかである。
そうすると、本件債務免除条例三条の規定は、憲法及び免除法の委任に根拠を有し、形式的意味の法律と同等の効力を持つものとしなければならず、これが地方自治法及び民法の信義則よりも形式的意味において下位にあるとすることはできない。
また、控訴人らは、本訴請求は、当の天皇の行う私的宗教行事たる新嘗祭への献穀行事そのものの違憲性が問われているから、条例により当該行事にかかる公金支出の賠償責任を免除することは許されないと主張するが、法規間の整合的解釈の見地からも、本訴請求についてのみ、これを除外すべき合理的理由は見いだせない。
更に、控訴人らは、免除法三条は、条例による定めを必要的としたものでなく、条例の定めが可能であるとしたに過ぎないのに、前記のような賠償責任の免除を定める条例は、条例制定権の濫用であるとも主張するが、本件債務免除条例を制定するか否かは、地方議会の専権に属する事項であり、この条例が無効とは認められない。」
二 本件新穀献納行事の主催者について
1 本件新穀献納行事の経過概要についての当裁判所の認定は、左記のほか、原判決の争点に対する判断二1(一)(二九枚目裏八行目ないし三九枚目表五行目)と同一であるから、これを引用する。
(一) 原判決三〇枚目表二行目「三六、」を削り、三行目「野々村善兵衛」の後に「、同爪嘉久司、同山口昌孝、同寺島健一」を加える。
(二) 同三〇枚目表九行目「取り扱う」を「取り計らう」と改める。
(三) 同三一枚目表六行目「農政課長」を「農産課長」と改める。
(四) 同三一枚目裏五行目「参考に」を「調査しこれらを参考として」と改め、同七行目「近江八幡市内の農協の職員と共に、」を削る。
(五) 同三二枚目表四行目「新穀献納」から七行目末尾までを「、従前の例にならって新穀献納奉賛会を設立すべく、市長名で、近江八幡市内の二つの後記農協の組合長、市議会議長らに対し、『近江八幡市新穀献納奉賛会設立準備会』の開催通知を発した。右開催通知には、『近江八幡市新穀献納奉賛会』(本件奉賛会)が昭和六〇年度の新穀献納の事業主体となるべき旨の記載がある。昭和五九年一一月五日及び同年一二月七日の右奉賛会設立準備会において、奉耕主二名が内定したほか(内定に至るまでの詳しい経過は中川ら担当市職員も把握しておらず、後記(10)以上には判明しない。)、前例にならった奉賛会の会員(役員)構成案及び会則案が了承され、また、昭和五九年度の新穀献納行事を担当した甲賀郡内の新穀献納奉賛会の例を参考として、本件奉賛会の予算を八〇〇万円とし、うち五〇〇万円を近江八幡市が、三〇〇万円を近江八幡市農業協同組合及び大中の湖農業協同組合がそれぞれ拠出することが内定した。右の二回の設立準備会を経たうえ、昭和六〇年一月二六日、本件奉賛会の発足総会が開催された。」と改める。
(六) 同三二枚目裏二行目「なっており」の後に「(ただし、『事業計画』書の『事業主体』の項には『近江八幡市内の(「新穀献納に関する行事に」ではなく)新穀献納に賛同する会員で構成した「近江八幡市新穀献納奉賛会」がこれにあたる。』と、また、『事業内容』の項には『奉耕主を選定し(米、粟を)播種祭、植付祭、収穫祭等の行事に従って生産し、これを献納する。』と各記載されている。)」を、五行目「議長、」の後に「市議会経済企業常任委員長、」をそれぞれ加え、八行目の「婦人会長」を「婦人部長」と改める。
(七) 同三三枚目表六行目「また、」及び八行目「更に、」の各後にいずれも「右会則において、」を加え、八行目「置かれ」を「置き」と改め、同枚目裏一行目末尾の後に「(もっとも、右事務局員となった農協職員二名が具体的に誰であるのかは不明であり、後記のとおり、農協職員が事務局員として積極的活動をした形跡はない。)」を加える。
(八) 同三三枚目裏二行目ないし六行目を次のとおり改める。
「なお、前記のとおり、本件奉賛会の会則においては、会議は、総会のほか必要に応じて会長が招集して開催するとされていたが、総会として開催されたのは右発足総会と昭和六一年二月一三日の昭和六一年度新穀種子引継式(別紙「近江八幡新穀献納事業経過表」番号四八)終了後の解散総会(公式名称は「解散式」)のみであり、他に全会員が招集されたのは、中間報告を目的とした昭和六〇年五月一六日の会合(同番号二一)及び新穀献上の打ち合わせのための同年一〇月九日の会合(同番号三五)の二回である。右会則には、総会や会長が招集する会議の議決方法等についての定めはないが、発足総会においては、各議案について特に異議を述べる会員もなく、いわゆる全会一致方式で各議案が承認された。他の解散総会や二回の会合においても、議案に対して異議が出された形跡はない(もっとも、昭和六〇年五月一六日の会合は報告事項のみで議決案件がなかったと推測される。)。また、会則では、理事は重要事項の協議に参画するとされていたが、右の各総会や二回の会合以外の何らかの機会に、理事と他の役員との間で、または理事相互間で、意見統一ができなかった例があったことは窺えない。」
(九) 同三四枚目表三行目「らによって構成されている事務局」を削り、五行目「に基づき、」の前に「では、前記のとおり、新穀献納の事業主体は本件奉賛会であり、右奉賛会は、播種祭、植付祭等の行事に従って米、粟を生産し、これを献納することを事業内容とする旨記載されているが、さらに『主要行事』として、奉告祭、米及び粟の各小、中、大祭、新穀検分式、献穀献上、各神社献上等が記載されている。右事業計画」を加え、七行目「種子引継式、」を削り、同枚目裏三行目「行われたが」の後に「(右各大祭、中祭の各案内状は本件奉賛会長名で作成されている。)」を加え、四行目「近江八幡市農協」から五行目「と共に、」までを削る。
(一〇) 同三四枚目裏八行目「総会」の前に「設立準備会、」を加える。
(一一) 同三五枚目表七行目「のもの」の後に「や近江八幡市所有、あるいは神職管理のもの」を加える。
(一二) 同三五枚目裏八行目末尾の後に改行して次を加える。
「なお、本件奉賛会は右のとおり各支出をし、また、各奉耕主には後記のように滋賀県から三〇万円ずつが交付されているが、各奉耕主は、斎田や予備田に散布する肥料、薬剤を自ら購入するほか、各行事に際し、本件奉賛会主催の直会に招かれない賛助会員に供する酒食の費用等を負担し、これらに要した金額は滋賀県からの右交付金の額をはるかに超過する。また、賛助会員は、斎田の構築に際して労力を提供したほか、後記のとおり、各行事に際しても資材を調達準備したり必要人員を配置するなどして運営の一端を担った。」
(一三) 同三五枚目裏末行「元近江八幡市」を「近江八幡市」と改める。
(一四) 同三六枚目表七行目「農政課長」を「農産課長」と、同枚目裏一行目「同事務所」を「水口町商工会館」とそれぞれ改め、二行目「同事務所長」の後に「及び八日市県事務所長」を加え、同三七枚目表一行目「西部」を「東部」と改め、九行目「右」の後に「県事務所長及び」を、一〇行目「議員、」の後に「右県事務所長代理の同副所長、」をそれぞれ加え、同枚目裏三行目の「大」の後に「、中、小」を、四行目「代理」の後に「、あるいは八日市県事務所長」をそれぞれ加える。
(一五) 同三八枚目表八行目の「参入者」の前に「献穀目録及び名簿」を、同末行目の「参入者」の前に「献穀目録及び」をそれぞれ加える。
(一六) 同三八枚目裏八行目「献穀者」から九行目「趣旨で、」を削る。
(一七) 同三九枚目表五行目と六行目との間に次を挿入する。
「(17) 米、粟の大、中、小祭などの実際の運営は、概ね本件奉賛会事務局員(中川ら担当職員)、賛助会員等によってなされた。昭和六〇年九月三〇日に米の中祭(抜穂祭)についてその一部をみると次のとおりである(他の行事については運営の詳細を明らかにする的確な証拠がないが、各行事、祭礼の特質から生ずる個別的差異があるとしても、各関係者等の関わりの有無、程度が全く異なることを窺わせる証拠はない。)。
前日の同年九月二九日、現地斎田において、賛助会役員及び本件奉賛会事務局員により中祭の準備がなされた後、神官、本件奉賛会会長(被控訴人奥野)、消防団、刈女、賛助会長、奉耕主、同助手、農業改良普及所指導員、本件奉賛会事務局員等が出席して事前練習が行われた。
必要資材等については、賛助会がテント、机、いす、露払竹、注連縄等を、奉賛会事務局が国旗、マイク、リボン胸花、演台、受付簿、ビデオ、カメラ等のほか斎鎌、三方、唐櫃(からひつ)等の祭祀用具(神道でいう「祭器具」)の一部を、神官がその他の祭祀用具や神饌物をそれぞれ調達、準備した。
中祭の当日には、奉耕主宅での受付は賛助会及び右事務局が、祭壇飾り付け等式場の準備は賛助会、事務局及び神官が、式の進行(司会、放送等)は右事務局が、ビデオ、カメラ等による記録は事務局及び賛助会が、昼食の準備は奉耕主の親族及び本件奉賛会が、駐車場の案内整理は賛助会がそれぞれ担当した。」
2 右認定の事実によると、近江八幡市新穀献納奉賛会は近江八幡市や滋賀県とは別個の社団であって、本件新穀献納行事の主催者は近江八幡市や滋賀県ではなく本件奉賛会であり、近江八幡市からの計四八八万円の支出も本件奉賛会に対してされたもので、近江八幡市から直接に神職その他の者に支払ったものではない。その理由は左記のほか原判決の争点に対する判断二1(二)(三九枚目表七行目ないし四一枚目裏六行目)と同一であるから、これを引用する。
(一) 原判決三九枚目裏五行目と四〇枚目裏一〇行目の「種子引継式、」を削る。
(二) 同四一枚目表五行目「主体的」を「積極的」と改める。
3 控訴人らは、本件奉賛会は、近江八幡市そのものであり、実質的にはこれと一体であると主張し、本件奉賛会から補助金残金のうち一二万円が近江八幡市に戻されていることは、この事実を示していると指摘する。
しかしながら、不必要となった補助金が市の会計に戻されること自体は精算がされたに過ぎないし、本件奉賛会は、一切の新穀献納行事の完了により消滅していて、残金の次期繰り越しは事実上も不可能であることからそのような会計処理がされたものである。この事実をもって、控訴人ら主張の裏付とすることはできない。
なお、中川ら近江八幡市の職員が前年度から新穀献納行事の視察等の準備を行い、本件奉賛会の事務局として、行事の下準備、打ち合わせ、行事の進行、片づけ、献納の随行、連絡その他の一切の事務を引き受けたことは、控訴人ら主張のとおりであるが、中川らの立場はあくまで本件奉賛会の事務局員としてのそれであって、近江八幡市職員としてのそれではない。
三 本件献穀行事の性格
1 新嘗祭の意義及び新穀献納行事の起源等
<証拠略>によると、次の事実が認められる。
(一) 現在皇室で行われている新嘗祭は、毎年一一月二三日、天皇が親祭して新穀を神に供進し、自らもそれを食する祭事である。
明治四年の大嘗祭に際して発せられた同年一一月の神祇省告諭は、いわゆる天孫降臨が大嘗祭及び新嘗祭の起源であるとしており、後に、特に大嘗祭についてその本質を天孫降臨の再現にあるとする学説も生じたが、現在ではこれと異なる解釈をとる学説が少なくない。
新嘗祭は、古代の農耕社会における新穀を神に供えて収穫を感謝した祭儀にその起源を求めることができる。この祭儀は、古来「にひなへ」(新嘗)と呼ばれ、朝廷、民間を問わず広く行われていたとされる。朝廷においては、その名称に変遷があり、一時、天皇の即位の後初めて行われる大嘗祭と区別することなく、毎年行われる新嘗祭も大嘗祭と呼ばれたことがあったが、律令制のもとで新嘗祭に該当する祭事が制度として整えられ、平安時代以降、毎年、宮中の大内裏中和院内の神嘉殿において陰暦一一月下卯の日に行われてきた。神宮司庁編「古事類苑」によると、その後、後花園天皇の寛正年間以後二二〇余年中断し、東山天皇の貞亨五年に「新嘗御祈」が始まったが、これは天皇の親祭ではなく、吉田の神祇官代(京都の吉田神社)で行われ、朝廷は神饌を供するだけであり、桜町天皇の元文五年に至って旧儀が再興されたとされている。
(二) 明治時代に入り、元年、二年は吉田の神祇官代が祭場とされ、天皇は東京で遥拝しただけであったが、同三年は東京の神祇官で天皇が親祭した。皇室祭祀に関し、明治四年に制定された「四時祭典定則」では、新嘗祭は元始祭ほか他の四つの祭典とともに天皇の親祭と定められ、同五年以降、祭式の次第が定まり、実態としても天皇が親祭することが確立していった。また、明治六年の改暦に際し、新嘗祭の祭日は毎年一一月二三日と定められ、それ以降の挙行は毎年同月同日となって今日に至っている。祭場は、明治六年の皇居炎上のため同年以降仮宮殿内の仮殿が使用されたりしていたが、同二二年からは宮中三殿の奥に新築がなった神嘉殿とされた。
(三) 明治四一年、皇室令第一号「皇室祭祀令」によって、皇室祭祀は大祭と小祭に分けられ、新嘗祭時の大祭は天皇の親祭、小祭は掌典長の主宰とされた。皇室祭祀令が定める各大祭のうち、旧来の皇室祭祀と継続性を持つのは新嘗祭及び神嘗祭のみであり、他は古例の復活一例を除き新たに創設されたものである。
なお、明治政府は、明治四年、官社、幣社以下の神社の社格を定め、以後、主に同八年ころまでの間に、全国の神社がこれに基づいて列格された。そして、大正三年の「官国幣社以下神社祭祀令」(勅令第一〇号)によって、神社の祭祀を大祭、中祭及び小祭に区分し、それぞれに該当する祭祀の種類が定められ、また、同年勅令第九号により、神宮の祭祀についても同様の区分がされたが、これらによって、皇室祭祀令にある皇室祭祀に対応する祭祀のすべてが伊勢神宮及び各神社でも執行されることとなり、例えば、毎年一一月二三日には、伊勢神宮及び各神社においても、いずれも大祭として新嘗祭を行うべきものとなった。右「官国幣社以下神社祭祀令」は、皇室祭祀と関係しない例祭、遷座祭及び臨時奉幣祭を大祭と、同じく神社に特別の由緒ある祭祀を中祭としたが、各神社固有の伝統的な特殊神事等は中祭及び小祭(大祭、中祭以外の祭祀)に多いともいわれる。
(四) 朝廷(皇室)の新嘗祭に使用される新穀は、天武天皇の時代からある期間、大嘗祭に準じて悠紀田(ゆきだ)、主基田(すきだ)の国郡の卜定が行われ、そこからの収穫物が使用されていたことが窺われるが、平安時代になると畿内の官田の稲、粟が用いられ、中世以降は近江国が悠紀に、丹波・備中が主基に定められて交互に献納がされてきた。これがいつまで続いたかは定かでないが、前記の元文五年の新嘗祭の再興以降ころから明治三年までは禁裏御料のうち、山城国宇治郡山科郷音羽村及び丹波国桑田郡山国郷七ヶ村から納められていた。しかし、明治四年の大嘗祭に際して、政府は地方からの物品の献上をほぼ一律に禁止し、右山科郷を管轄する京都府に対しても、粟、米を納める必要がないと指示したため、新穀献上はここに終わり、明治五年以降は、大蔵省、同一一年からは東京府がそれぞれ新嘗祭に用いる米、粟を納め、同一四年からは植物御苑(新宿御苑)で栽培された米、粟が供進されるようになった。
(五) 明治一五年一一月一七日、宮内卿徳大寺実則は、太政大臣三条実美及び右大臣岩倉具視に宛てて、「維新以来、種々の悪弊があるため皇室への物品献上を禁止してきたが、悪弊が生じないような方法を設けて、篤志者の献上物品を御嘉納されたい。また、毎年の新嘗祭の節、往昔は国郡を卜して新穀を献上していたが、近来これが廃絶となっているのはすこぶる遺憾である。ついてはこのような旧制を復活させるべく、時勢相応の制を調べるため、宮内省に別局として『内規取調所』を設置したい。」との趣旨の伺いを提出したところ、同月二七日、右両大臣から、差し支えないとの回答があり、同年一一月、岩倉具視から内規取調所設置の建議がされた。
岩倉具視は、同年一二月九日、上京していた地方長次官に対し、三条実美とともに次のような趣旨を内諭した。すなわち、右内諭は、まず大嘗祭、新嘗祭の沿革を記し、さらにその起源が天孫降臨にあるとしたうえ、「大嘗祭、新嘗祭は、天皇が神恩に報い、年々の豊穣を祈るもので、万民の食は当初天祖の賜物であることを忘れないでいよいよ農事に励ませ、瑞穂の国号を永遠に伝えるための重礼であるから、万世に亘って変易してはならない。」とし、このように大嘗祭、新嘗祭は国家の大事であり、これに対し国民は謹慎敬恭の情を表すべきであるのに近時これがなされず徳義が失われているのは嘆かわしいので、各地方官は国民に右の二大祭の厳儀の旨意を徹底させることを要するとしたうえ、これに続けて「わが国は、農業を本とし、穀は米をもって貴とするが、今日においては、国民をしてますます本を務め、米を貴ぶの風を起こさせることが民政上の要務である。そこで、大嘗祭及び新嘗祭に当たり、各地方の豪農による神饌新米貢納の情願を許す道をひらくべきである。その貢納の量は多くなくともよい。貢納者は、毎年交代させるものとして、各地方官が適宜選定する。このような貢納がなされれば、一つには、国民が米穀を貴重し、農業を勉励するの風を起こし、他日外国輸出米等国家経済上に好影響を与えるし、一つには、民情を融釈し大いに忠孝敬愛の情を啓導するに足りる。ただし、郷村農家に栄誉を得させて農業を勉励させることが右の貢納の趣旨であるから、国民に時間費用を費やさせてはならない。そこで、宮内省に取調所を設置し、右貢納等の内規を制定させる。」とする。
岩倉具視が同年一一月宮内省別居局となる内規取調所の設置を建議したことは右のとおりであるが、同年一二月一八日、右内規取調所が設置され、岩倉具視はその総裁心得に就任した。
しかし、翌明治一六年七月、岩倉具視が死亡したため、右内規取調所は、同年一二月、特に見るべき成果を挙げないまま頓挫した。
(六) 明治二五年四月一六日、東京府知事ほか全国の知事四六名から宮内大臣土方久元宛に「新嘗祭供御献納之儀ニ付願」と題する請願がなされた。これには、「(新嘗祭は)天祖ニ報ヒ、以テ年々ノ豊穣ヲ祈ラセ給フモノニシテ万民生活スル所ノ食ハ当初天祖ノ賜モノナル事ヲ忘レシメス弥農事ヲ励マシメ給フヘキ重祀ナレハ国民タル者此意ヲ奉体シ聖意ニ副ヒ奉ランコトヲ冀フヤ勿論ナリ。故ニ毎年新嘗祭ニ当リ各地方有志農民ヨリ新穀ノ初穂ヲ献納センコトヲ請願スルモノアラハ御採納ノ上神饌ノ資ニ供セラルルニ至ラハ国民ハ此貴重ノ神饌ヲ献スルノ栄ヲ得皇室ノ忝シケナキヲ感佩シ我国ノ大本タル農事ヲ貴フノ風ヲ起シ国家ヲ利スル大ナルヘシ」とあり、これを受けて、「各府県から毎年新穀の精米一升、精粟五合(粟を栽培していない地方は精米のみ)限りとして有志者からの献納を許して欲しい。許可があれば、各府県庁において献納の新穀を取り纏め、別紙手続書のように極めて丁重に取り扱う。」旨記載されている。右別紙手続書には「新嘗祭に供御される新穀は、各府県の有志農民より献納するものとする。献納する新穀は、『耕作肥料等専ラ清浄ヲ旨トシ』その初穂とする。献穀は有志献納人の総代氏名をもってするものとし、府県庁を経由して一〇月三〇日までに宮内省に納める。」とあるほか、献穀する新穀の量について右と同旨の記載がある。
宮内大臣土方久元は、同年四月二二日、各府県知事に対し、右請願を聴許するので、毎年期日に式部職に献納する新穀を納付するよう指示した。
右の宮内大臣の指示により、この明治二五年以後、各府県から新嘗祭に供する新穀の献納がされることになった。
なお、地方からの物品献上は、これに先立って明治一六年に制限的ながら復活している。
2 戦前の新穀献納-滋賀県を中心として
<証拠略>によると、次の事実が認められる。なお、右各事実は、主に滋賀県に保存されている行政文書から判明するものであるが、右文書の保存状況から断片的な認定となることを否めない。
(一) 滋賀県知事は、前記のとおり、明治二五年四月二二日に宮内大臣が各府県知事からの新嘗祭献穀の請願を聴許したことを受けて、同年六月一〇日、郡長に対し、訓示第一三号を発した。これには、各府県知事からの右請願の前記『別紙手続書』記載の事項のほか、献納の新穀は最も善良な種子を選択すること、新穀献納は毎年一郡に限り、初年は滋賀郡とし爾後栗太郡から各郡を所定の順番で巡ること、献納者の人員及び選抜法は郡長に委ねるが、できるだけ各町村長に有志の中から農事に最も熱心で品行方正な者を選ばせることなどが指示されている。
右のとおり、県知事の指示により明治二五年の新穀献納の担当とされた滋賀郡では献納者を決定するとともに「新嘗祭供御献納者心得」を作成して、これを同年七月四日滋賀県知事に報告した。右心得には、「疾病居喪等に備えて献納者は一村で二、三名が共同して献納すること、献納者は、敬神尊皇の大義を重んじ平素品行を慎み農事に勉励し一般の模範となる心懸けでいること、供御の耕作地は、水早のおそれのない最上等の地を選定し、人畜の糞尿等の不潔な肥料を用いた耕地を通過する用水を引水するなどしてはならないこと、供御耕作地は判然と区域を定めて四方に青竹をもってしめ縄を張り、『「新嘗祭供御耕作地 耕作人何某 何某』、『不浄の者入るべからず』と記した標柱(しめばしら)及び禁札を立てること、播種するには、村内老農篤志者等を集合し村長が立ち会い、神官を招いて豊熟の祭典を行うこと(播種の祭典以外に祭典を行う旨の指示はない。)、肥料は清潔なものを用い、刈り取った後は清潔な場所で乾燥させて他物を混ぜないようにすること、供御の米、粟は十分精白してから一粒ずつ選択すること、居喪者等不浄な者を人夫として用いてはならないこと」などを定めている(同じころ、東京府においても、類似の文書が作成されている。)。
(二) 栗太郡下田上村村長は、明治二六年一〇月二〇日、滋賀県知事に対し、官幣大社日吉神社、官幣中社建部神社及び官幣小社多賀神社の同年の各新嘗祭(後記のとおり、皇室の新嘗祭と同じ時期に各神社で新嘗祭が行われていた。)に供御する粟を同村内の粟献納者から献納するので受納されたい旨の申入れをした。
(三) 大正五年三月三日、農商務省農務局長は、各府県知事に対して、次の事項を含む通牒を発した。
(1) 新嘗祭への精米、精粟の供進は、同年から農商務省の監督下で行う。
(2) 新嘗祭の神饌に用いる米粟を各地方から供進させるのは、農事奨励の意を含むものであるから、よくその主旨を体して耕作者を選定すること
(3) 栽培、供進する稲は、原則として、関山、亀ノ尾及び大場等指定の種類の中から選択すること
(4) 肥料は人糞他不潔なものを避け、栽培上清浄を保つことに注意すること
(5) 献穀の分量は一道府県につき、精米一升、精粟五合とし、白布袋に入れ、桧又は桐の二重箱に納めること
(6) 献穀は取り纏めの上一〇月二〇日までに上納を了するよう小包で宮内省に送付し、上納した旨農商務省に通知すること
(四) 大正六年から、それまで宮内省に献穀が受納されると、その旨を式部長官が各府県知事に通牒し、右知事から各献穀者にそれが伝達されていたのが、式部長官から右知事を経由して各献納者に通達書を交付する方式に改められた。その理由を当時の農商務省農務局長は「農事御奨励ノ御主旨ヲ一層農業者ニ徹底セシムル上ニ効果可有之」と説明している。
(五) 滋賀県における大正一二年の献穀は神崎郡が当番であったが、同郡が作成した「新嘗祭供御米粟ニ関スル順序」中に「祭式ハ左ノ通リ」として「地鎮祭、播種式、田植式、抜穂式、進献清祓式」が挙げられている。
(六) 大正一二年一〇月一三日、神崎郡五峰村在住の同年の米の献穀者は、滋賀県知事に対し、県内官幣社三社及び県社三八社に対し、新嘗祭供御の米を献納したいので配慮を願う旨の献納願を提出した。
(七) 滋賀県知事は、大正一五年一〇月九日、訓令第九二号をもって「新嘗祭供御新穀献納手続」を定めた。右手続は五条からなり、「新穀献納奉仕者の選定区域は、知事が告示する。右告示にかかる区域内の市町村長は、新穀献納奉仕候補者として米、粟各一名を選定し、その住所、氏名、年齢、農事上の経歴等所定の事項を記載した書面を添えて一月末日までに知事に具申する。知事は、右の候補者の中から新穀献納奉仕者を選定して告示する。」ことなどを定めている。
(八) 滋賀県における昭和七年の米の献穀者は、栗太郡治田村在住の宇野茂市であるが、同年六月二日、「御田植祭」が行われた。これに先立って「治田村新嘗祭供御田奉賛会長」から、その案内状が発せられている。
その式次第は、一同着席の後、修祓、降神、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠と続き、次いで御田植の儀となり、その後撒饌、昇神、一同退席、直会となっている。
なお、右の田植祭での来賓の祝辞の原稿と思われるものの中に「申す迄もなく其の献穀の義は勧農の御聖慮を以て明治二十(以下、不明)」とする部分がある。
(九) 農林省農務局農政課長は、昭和八年九月三〇日、各道府県の農務課長に対する通知で、「新嘗祭供御の米粟は、従来小包郵便又は鉄道便等で宮内省に送納していたが、近年、自らこれを携行して関係者付き添いの上宮内省に出頭して献納する献納者が漸次増加している事情に鑑み、宮内省においては、右出頭者に対して特に神嘉殿の南庭及び新宿御苑の拝観を許している。」としたうえ、爾後「宮城内に参入できる者は、献納者、その妻及び直接指導の任に当たった者で、原則として一道府県五名以内とすること、新宿御苑拝観希望の者は、土曜日及び日曜日以外の午前中に同御苑に参入できるよう日取りを選ぶこと、服装は男子は黒紋付と袴、またはモーニング、フロックコート、女子はなるべく白襟黒紋付とすること」などを指示した。
滋賀県においては、遅くとも昭和八年以降昭和一九年までの間は、献納者が直接新穀を宮内省に持参して献納していた。
(一〇) 昭和九年における滋賀県の新穀献納の当番郡(前記(七)の大正一五年訓令第九二号に基づく告示で指定された区域。以下、「当番郡」又は「当番」という場合も同じ)である甲賀郡の農会が作成した「新嘗祭献穀田協議事項」には「祭典ニ関スル件」として「奉告祭(小祭)、供御田祓式(中祭)、鍬入式(小祭)、浸種式(小祭)、水口祭(小祭)、播種祭(中祭)、田植祭(大祭)、除草祭(小祭)、虫除祭(小祭)、抜穂祭(大祭)、供納祭(中祭)」が記されている。
(一一) 昭和一二年一〇月一二日滋賀県の県会議事堂において、新嘗祭供御新穀収納式が挙行された。その式次第は、修祓をしてから収納式に入り、知事が供御米粟を検閲して領収書を献納者に交付し、次いで知事の告示となっている。
右収納式終了後引き続いて県内の官幣社、県社への献穀伝達式、献納者に対する知事及び県農会からの各表彰状、県官幣社会及び県社社司会からの各感謝状の授与式が行われた。
(一二) 昭和一六年ころ作成された新穀献納に関する行政文書(その性質、作成者は不明)の中に、献納者の決定順序として「町村長の推薦-実地調査-警察調査-決定-選定書交付式-農林大臣報告」との記載がある。
右の「町村長の推薦」に関し、昭和一六年一月、伊香郡の町村長並びに農会長会において献納者の選定について協議されており、また、「警察調査」に関し、同年三月、県の経済部長から献納者候補者の住所地を管轄すると推測される警察署の署長に対して、右候補者の身元調査の依頼がされている。
滋賀県経済部長は、昭和一六年の当番郡であった伊香郡内の村長に対し、同年(月日不明)、新穀献納奉仕者選定書交付のため出頭を求めたが、併せて、斎田経営に当たり、耕作指導は勿論、その他の必要な一切の事項に関して終始周到な注意をなすとともに、極力援助するよう配慮を求め、右奉仕者に対して、「種子は前年献納した種子を用いること、栽培上清浄を保つこと、翌昭和一七年献穀用種子を厳選採取すること、斎田に『昭和十六年新嘗祭供御耕作地』と標示して不潔な所業がないようにすること」などを示達するよう指示した依命通達を発した。
(一三) 昭和一八年は大津市が滋賀県における新穀献納の当番であったが、祭儀として、米については、修祓式水口祭(中祭)、播種祭除虫祭(小祭)、御田植祭(大祭)、風除祭(小祭)、抜穂式(中祭)、供納出発修祓式(中祭)、献納終了奉告祭(小祭)が、粟については、修祓式鍬入式(中祭)、播種祭(大祭)、除虫祭風除祭(小祭)、抜穂式(中祭)、供納出発修祓式(中祭)、献納終了奉告祭(小祭)の執行が予定された。
この昭和一八年、宮内省のほか、明治神宮、靖国神社、伊勢神宮、県内官幣社(六社)、県社(四八社)、大津市内の郷社及び神社に対して新嘗祭の献穀がなされている。
(一四) 昭和二〇年の当番は長浜市であったが、その新穀献納の各行事を主催したのは「長浜市新嘗祭供御献穀奉賛会」であり、その会長は当時の長浜市長であった。
この年、右奉賛会長から、滋賀県知事や県経済部長、農務課長に対し、祭典(行政文書では「新嘗祭献穀祭典」等と表示)への臨席、臨場を求める申請が度々されている。
また、昭和二〇年一〇月二四日開催の「新嘗祭供御献穀収納式」における知事告辞は、新嘗祭に供進する新穀献納の趣旨、由来を「(新嘗祭に用いる新穀は)農事御勧奨ノ御趣旨ニ依リ明治二十五年以来各地方ヨリ選バレタ篤農家及精農家ニ之ガ耕作調達ヲ差許サルル事ト相成ッタ次第」と述べている。
3 戦後の新穀献納-滋賀県を中心として
<証拠略>によると、次の事実が認められる。
(一) 前記のとおり、大正五年以来、農商務省(後に農林省)が新嘗祭への新穀献納を監督していたが、昭和二〇年一二月二八日、農林省農政局長は、各都道府県知事に対し、同月一五日連合軍最高司令官総指令部参謀副官発第三号日本政府ニ対スル覚書(いわゆる「神道指令」)に基づき、右の監督をしないこととなった旨通知した。以後、農林省(後に農林水産省)は新穀の献納に関わっていない。
昭和二一年一月七日、宮内省の掌典長(皇室祭祀の事を掌る掌典職の長)は、各都道府県知事に対し、新嘗祭用の精米、精粟の献納は「自今従来ノ手続ヲ省略シ右奉耕希望ノ向ニ対シテハ献納任意ト存セラレ候」としてこれに添った取り計らいを求める旨の通知を発した。次いで、同年五月一〇日、式部頭から各都道府県知事に対して、時下の情勢に鑑み献納の取り扱いに付き一層の配意をしてもらいたいとして、「献納者の任意の申し出により献納の取り扱いをすること。献納申出者が数人いる場合は共同献納でも差し支えない。特別な施設行事等は廃し、普通耕作により収穫したうちから初穂を献納されたい。」との通知が発せられた。
また、右同日「容器は従来のもの、または、袋包等を使用しても差し支えない。耕作者が服喪のときは、喪中は献納を遠慮されたい。」等とする通知も発せられている。
(二) 昭和二二年一二月一二日、掌典長から各都道府県知事に対し、「昭和二三年度新嘗祭献穀については、本年通りこれを供御に供進せられるのでお通知します。」との通知がなされている。
昭和二三年以降、少なくとも昭和二九年までの間は、その年度の初めに「昨年どおり、献穀を供御に供進せられるので通知する。」旨の右とほぼ同文の通知がされていた。
(三) 昭和二四年一月二一日、掌典長(なお、掌典長は、この時点までに、内廷費から俸給を支給される内廷の職員すなわち天皇の私的使用人となった。)は、各都道府県知事に対して、右(二)記載の恒例の通知をしたが、その添付書類の中には、右(一)の式部頭の通知と同旨の部分があるほか、これに加えて、「数量は各都道府県精米一升、精粟五合程度とする。容器は従来使用のものでも、適宜袋包等を使用しても差し支えない。耕作者が服喪の場合、忌中は献納を遠慮されたい。」等の記載がある。なお、昭和二八年度の掌典長の右通知の添付書面には、「献穀は献納者の任意の申し出による。服喪中の忌中の献納は辞退願う。」ことなどは右(一)記載の昭和二一年の各通知及び昭和二四年の右添付書類の記載と同旨であるが、「原則として、一府県で精米、精粟の奉耕者各一名ずつとし、できるだけ毎年同じ人にならないようにする。」とあるのは右通知等と異なり、また、右通知等では「普通耕作により収穫したうちから初穂」とされた献納すべき新穀の耕作方法や選択についての記載がなくなっている。
(四) 滋賀県においては、戦後も、前記の明治二五年訓令第一三号によって定められた順序に従って毎年の当番郡市から新嘗祭への献穀者が出ているが、少なくとも昭和三五年ころまでは、県から当番郡市を管轄する地方事務所長等に対して、献納者の推薦、決定を依頼する文書が発せられており、実際に地方事務所長の推薦した候補者が献納者に確定したことを確認できる年度が複数ある(昭和三六年は、当番である大津市に対して献納者の推薦を依頼し、同市推薦の者を献納者とした。)。
なお、後記のとおり、滋賀県は昭和二七年五月に新穀献納について各都道府県に照会しているが、その照会文の起案文書には、献納者は知事が人選している旨の記載があり、同年一月の奈良県経済部長からの照会に対する県農政部長の回答の起案文書中には、奉耕者の人選は当番郡市を管轄する地方事務所長に委任しているとの記載がある。
(五) 滋賀県経済部長は、昭和二七年五月一四日、各都道府県に対し、同年度の新穀献上者に対する補助金交付の有無、その支出方法及び金額を照会した。これに対する回答によると、新穀献上に関して何らかの経済的支出をしているのは一都、九県であった(鳥取県は戦時中から新穀献上を中止していると回答)。
(六) 昭和二七年九月二五日付の滋賀県農政課作成の「新嘗祭の献穀について」と題する伺い文書には、「新嘗祭の献穀について戦後は県はただ宮内庁と献穀者との連絡機関に止まり、昔日のように積極的、指導的ではなかった。しかし、独立を遂げた今日では、世道人心の昂揚上有効な施策は戦前のものでも復活すべきである。現下の思想不安に鑑み、天皇を象徴とする堅実な国民思想を暢達する必要がある。かかる見地から新穀献納行事は過去のように形式主義、陋習及び神がかり的臭味を脱して自由、明朗、親愛を目途として運営すれば皇室に対する親愛観を助長することができる。この行事は興農運動、増産奨励に寄与するものがある。」ことを理由として、昭和二七年度の新穀献上においては、前年度より県の関与する度合いをやや深め、「献納新穀に対する知事の検分」及び「奉耕者に対する知事招待の懇談会」を行いたいとの記載がある。
これを受けて、昭和二七年以来、皇居への新穀献上前に右の知事検分等が実施されている。なお、右の知事検分式に際しては、戦前の新嘗祭供御新穀収納式における修祓のような神事、祭儀は行われていない。
(七) 滋賀県の昭和二七年及び同二八年の各新穀検分式における知事挨拶の起案文書には、「新嘗祭は、天皇と皇室に限る祭典ではなく、日本人が良識と愛国心を有する限り事実上国家的祭典であると思う。」、「食糧の生産は、人間の生命の基幹であり、諸産業の一切を含む。新嘗祭の日に当たる一一月二三日の勤労感謝の中に、新穀の生産を祝福する農業の精神が通っている。」等としたうえ、末尾に「新穀献上の行事が、皇室と国民の間に親愛の情を深め、農業生産の増強をもたらし、愛国心の昂揚に寄与すると信じている。」との部分がある(昭和三五年度検分式の知事挨拶の起案文書末尾にも「新穀献上の行事を通じて皇室と国民との間の親愛の情が深まるとともに、農業及び農家の発展向上に寄与することを信じている。」旨の記載が見られるし、同年度の滋賀県の他の行政文書中にも同旨の記載があるものがある。)。
(八) 前記のとおり、滋賀県においては、戦前は献穀者が新穀を直接宮内省に持参して献納していたが、戦後も早い時期から、同様にして献納していたことが窺われる。そして、遅くとも昭和二九年以降は、県東京事務所の職員がその準備等に当たることになった。
(九) 遅くとも昭和三二年には、右(二)記載の掌典長から各都道府県知事に対する通知の文面がやや変わり「本年度新嘗祭に献穀を希望する者がある場合は、別紙の方法により受納いたしますから、よろしくお取り計らい願います。」となり、右の別紙には「献穀は、献穀希望者の篤農家の中から、精米、精粟各一人を選定し、貴庁を通じて献納するよう計られたい。献穀の量は、精米一升、精粟五合とする。献納のため皇居に参入する者は、献穀者、関係者を含めて一〇名以内とする。」ことのほか、決定した献穀者の通知時期、献穀受納の予定期間等の記載がある。
以後、昭和六〇年当時まで、掌典長から県知事に対して毎年二月ころ、右とほぼ同一の文面の通知(ただし、皇居参入者の数は変遷がある。)が発せられている。
(一〇) 滋賀県においては、遅くとも昭和三八年以降昭和六〇年当時まで献納された精米の品種は毎年瑞穂一号である。また、精粟については、昭和二六年から昭和四五年までの間はもちあわ一〇号が、昭和四六年以降は昭和六〇年当時までもちあわ六号が栽培、献納された。
(一一) 昭和三六年は大津市が当番に当たっていたが、新穀献納供御に関する各種行事として、米については地鎮祭、播種祭、田植祭及び抜穂式が、粟については地鎮祭、播種祭及び収穫祭がそれぞれ予定、執行された。
田植祭については、大津市新穀献納奉賛会長及び奉耕者から、滋賀県知事に対して出席を要請したことが確認できる(昭和三五年においても、奉賛会長から知事に対して、田植祭への出席要請がされている。)。
(一二) 滋賀県では、遅くとも昭和五四年ころ以降は、毎年、前記二1引用の原判決認定の昭和六〇年における米、粟の各大、中及び小祭等の諸行事とほぼ同じ行事がほぼ同じ時期に行われるようになっていた(これ以前に戦後どのような行事がなされていたかについては先に認定した以上にこれを明らかにする的確な証拠がない。また、昭和五四年、同五五年以降の関係文書の中に「献穀祭」、「奉耕主」との表記が見られるが、これらの用語がいつごろから使用されるようになったかは不明である。)。
(一三) 昭和五五年は草津市、同五六年は栗太郡(奉耕主は栗東町在住者)、同五七年は守山市がそれぞれ当番郡市となったが、この三か年における奉耕主の選定方法及び奉賛会の構成員等については、次のような相違がある。
(1) 昭和五五年の奉耕主の選定は、草津市が市農協に選定を依頼し、農協の組合長会議で奉耕主を選定する集落を内定して当該集落内で奉耕主を内定したうえ、奉賛会総会で正式に奉耕主を決定したが、昭和五六年及び同五七年は、前記認定の昭和六〇年の場合と同様に奉賛会の設立準備会において奉耕主を内定して奉賛会総会で決定した。
(2) 昭和五五年及び昭和五七年における各奉賛会の構成員は、昭和六〇年の本件奉賛会のそれと大差がなく(ただし、昭和五五年には県の農政課長及び農業改良普及所長が参与に就任している。)、会費も徴収していないが、昭和五六年においては、これより広い範囲で奉賛会への入会を呼び掛けた形跡があり、しかも、会員からは一口三〇〇〇円で会費(入会金)を徴収している。
(一四) 昭和五六年の当番地域の奉賛会の事業計画書には、新穀献納の趣旨として「新嘗祭の伝統的な慣例により全国農民から自主的に献納し、農作物の収穫をよろこび、農業への理解と情操をはぐくみ、農業の発展を願うため」との記載がある(後記4(二)のとおり、この表現は本件奉賛会の関係文書にも見られるものであり、ある時期から慣用的に使用されていたと推測されるが、その始期及び由来は不明である。)。
4 本件新穀献納行事の内容等
<証拠略>を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 近江八幡市は、昭和四一年度に南部の町村において、新穀献納行事が行われたことがあったが、昭和五九年二月ころ、昭和六〇年度の新穀献納行事が慣例に従い近江八幡市内において行われる予定であるとの通知があり、担当を命ぜられた中川らは、昭和五九年度の新穀献納行事を主催した甲賀郡の奉賛会の各種行事を視察するなどして次年度に備えた。
昭和五九年一一月五日本件奉賛会の第一回設立準備会が、同年一二月七日第二回の同準備会が開催され、奉耕主並びに事業予算の規模及びその負担が内定された。
中川は、前年度の予算及び決算等を参考にして、近江八幡市に対し、近江八幡市新穀献納奉賛会会計予算書(総事業費を八〇三万円とするもの)を提出して予算の交付を要求し、昭和六〇年一二月中に同市議会で二五〇万円の支出が承認された。
右の会計予算書には、旅費九五万円、報償費一四一万円、消耗品費九六万五〇〇〇円、食糧費一六一万二〇〇〇円、使用料及び賃借料三一万円、斎田構築及び管理費二二八万三〇〇〇円、賛助会活動費五〇万円との予算額の記載とともに、前記争いのない事実及び前提となる事実7の下段とほぼ同様の支出の費目とこれにかかる予算の記載がある。
また、昭和六〇年二月ころまでに、中川は、昭和六〇年度本件奉賛会会計予算書、本件奉賛会計画書および収支予算書(いずれも事業費を五五二万九〇〇〇円とするもの)を近江八幡市に提出し、同市議会により昭和六〇年度予算から更に二五〇万円の補助金支出の承認を得た。また、同年三月三〇日付で本件奉賛会長の被控訴人奥野は、昭和五九年度本件奉賛会実績書および収支精算書を提出した。
(二) 右の第一回設立準備会の開催通知及び第二回の同準備会で配布された新穀献納祭事業計画案には、いずれも新穀献納について「新嘗祭の行事に際し、伝統的慣例により全国農民から自主的に献納し、農作物の収穫のよろこびと農業への理解と情操をはぐくみ、農業のますますの発展を願うため」とする部分がある。以後も、本件奉賛会作成の文書の中に同一の表現が見られる。
昭和六〇年一月二六日に本件奉賛会の発足総会が開催され、奉耕主二名が選定されたが、神官等の出席はなく、宗教的儀式はなされていない。
(三) 掌典長は、昭和六〇年二月一日付で、滋賀県知事に対し、前記二3(九)認定の通知を発した(献納のための皇居参入者の人数は八名までと指定された)。
(四) 昭和六〇年二月一九日、水口町商工会館において種子引継式が行われ、昭和六〇年度の米の奉耕主平井敏雄が瑞穂一号の種子を、粟の奉耕主野々村善兵衛がもちあわせ六号の種子をそれぞれ前年度の各奉耕主から引き継いだ。
この行事には神職等宗教家の出席はなく、宗教的儀式は行われていない。なお、瑞穂一号は美味で良質米だが、倒伏しやすく、現在ほとんど生産されていない。また、現在、栗は虫・鳥害に弱く、粟を食用に生産することがほとんどなく、滋賀県では栽培されていない。
本件奉賛会長である被控訴人奥野を始めとする右種子引継式の出席者は、右引継式終了後、分散して右各奉耕主が氏子である地元の小田神社及び上野神社にそれぞれ赴き、右各神社において、奉告祭(引き継ぎを受けた種子を神前に供え神官の祈祷を受ける儀式)が行われた。
(五) 昭和六〇年二月二二日から同年四月二一日にかけて、右各奉耕主の所有農地において、米及び粟の斎田が構築された。斎田は、接面道路から奥の田(米)又は畑(粟)の部分(狭義の斎田)に向かって参道があり、行事の日には、入り口に手洗場が設けられ、参道の両側に各行事の際に参列者等が列席する区域がある。斎田の手前には、鳥居及び「昭和六〇年度新嘗祭新穀供御斎田」と記した標柱(しめばしら)等のある一画があり、祭事の際には、ここに祭壇等が設置される。狭義の斎田は竹矢来(細竹を斜めに組んだ玉垣)及び四隅に立てた青竹に張られた注連縄で周囲を囲まれている。斎田と竹矢来との間には玉砂利が敷かれている。
斎田の構築は、中川ら担当市職員が従前の例に従って斎田の規模、構造等を指示し、埋め立て、土盛りに使用する土は本件奉賛会の費用で購入し、賛助会の会員が、竹や砂利を用意し、労力を提供して行われた。
(六) 昭和六〇年四月五日、小田神社及び上野神社において、中川ら担当市職員及び賛助会長らが出席して早乙女等選任式が行われ、集合した地元の女子小中学生に対して早乙女、玉姫(踊り子)及び刈女への就任が依頼され、神官のお祓いがされた。
なお、後記の各行事における玉姫の踊りは、本件奉賛会が、地元の舞踊の専門家に振り付けの創作及び実技指導を依頼したものであり、そこで使用された音楽は従前のものを基にして編曲等を専門家に委嘱したものである。
(七) 昭和六〇年四月二二日米の地鎮祭・播種祭(小祭)が、同年五月二一日粟の地鎮祭・播種祭(中小祭)が、いずれも各斎田において前記各神社の神官が主宰する神事を中心に行われた。
その具体的内容を明らかにする証拠はないが、後年の例から推測すると固有の祭儀として、本件奉賛会長が斎田の傍らの砂山に向かい斎鎌を振るったり、奉耕主が砂山に向かって斎鋤を振るう儀式等からなる地鎮の儀、奉耕主等が苗代又は粟の斎田に種子を播く播種の儀が執行されている。
(八) 昭和六〇年六月八日米の御田植祭(大祭)が米の前記斎田で執行された。
右御田植祭の式次第は、開会の辞、国旗掲揚、神事(修祓の儀、降神の儀、献饌の儀、祝詞奏上、神楽、斎田祓の儀、早苗授受、御田植の儀、忌串立の儀、玉串奉奠、撒饌の儀、昇神の儀)、本件奉賛会会長式辞、来賓祝辞、奉耕主謝辞、国旗降納、一同乾杯及び閉会の辞からなる。
右御田植祭は、小田神社の神官が祭主となり、司会は近江八幡市農政課長で、本件奉賛会事務局長であった前記中川が担当した。主な神事の具体的内容は次のとおりであり、祭主は神職礼装(斎服)、祭助手は常装(浄衣等)、奉耕主及び奉耕主助手は、烏帽子の正装、玉姫及び早乙女は、それぞれの衣装をまとっていた(なお、大祭、中祭等の以下の節目の行事には、概ね同様の衣装が用いられた。)。
(1) 修祓の儀
神官が祓戸の神に祈願をした後、大幣(おおぬさ)を振って祭具及び参列者全員をお祓いする。
(2) 降神の儀等
神官の警蹕(人を警(いま)しめ、蹕(つつし)ませるために呼び掛ける声)の中、神が神籬(ひもろぎ)に降神する儀式である。
神事の最後に、同じく神官の警蹕の中、神が昇天するのが昇神の儀である。
(3) 献饌の儀等
神に酒食等を捧げる儀式であるが、その直後に、唐櫃から早苗が出され、三方に載せて案(高脚の祭祀用机)に安置される。
後記の玉串奉奠の後、神饌を神前から下げるのが撒饌の儀である。
(4) 早苗授受
神官が、早苗を載せた三方を本件奉賛会長である被控訴人奥野に渡す。次いで、被控訴人奥野はこれを奉耕主の平井敏雄に渡すが、その際、検分者として指名された滋賀県知事の被控訴人武村が、授受される早苗を検分するような所作をする。奉耕主は、受け渡された早苗を早乙女に渡す。
(5) 御田植の儀
奉耕主が、祭員から手渡された儀式用の鍬で、斎田(狭義の斎田部分)を耕す所作をする儀式の後、田植歌のテープが流れ、玉姫が斎田の一辺で踊る中、早乙女が斎田で田植えをする。その際、県の農業改良普及所職員二名が、早苗の列が乱れないよう紐を張って植える位置の目安とする。なお、右の田植歌の歌詞は、前年の昭和五九年の甲賀郡信楽町における御田植祭での田植歌のものと地名を指す一ヶ所(昭和五九年度のそれに「甲賀の宮の」とある部分を昭和六〇年度のそれでは「はちまんの宮の」と変えている。)を除いて同一であり(その由来等は不明である。)、歌詞は、一番から十番まであり、三ないし五番、七番及び九番には格別宗教色がないが、「一つ日の国昭和の御代に供御(くご)のほまれの御斎田、二つ 深くも八幡の宮の神の守りの影がそう、六つ 往古(むかし)の神代の手ぶり天のたりみずとりいれて、八つやどるは日の大御かみ植える手先に天降る、十で 共々瑞穂のみのり神に祈りの田植歌」等の神道的な文言が含まれている。
(6) 忌串立の儀
斎田の周囲に忌串(いみぐし、幣のついた串)を立てる。本来は田の神を迎える意義を持つ。
(7) 玉串奉奠
本件奉賛会長である被控訴人奥野、奉耕主、滋賀県知事である被控訴人武村等が順次玉串奉奠をする。その際、二礼二拍手一礼の方式で拝礼する。
神事の終了後、本件奉賛会長の式辞に続いて滋賀県知事である被控訴人武村が祝辞を述べた。その中で、被控訴人武村は、「新嘗祭献穀の行事は、本年の新穀の収穫を祝い、これに感謝するとともに、来るべき年の豊穣を祈願されるもので」ある等として新穀献納の意義を述べ、宮中への献上の際に天皇、皇后両陛下に拝謁するのは、皇室が、国民に親しみを寄せられ、農業への理解と農業の発展向上に深い関心を示している証であるとする。次いで、被控訴人武村は、農業の現状、農林水産業の重要性(「湖国の基幹産業」と位置付ける。)を強調し、地元の小田町の圃場整備や減反問題等への取り組みを称賛したうえ、献穀の行事を通じて「農業に対する認識を一層深められ、魅力ある農業経営に精励されることを期待する」とし、奉耕主ほか関係者が誠心誠意丹精込めて御奉耕し、見事な収穫が迎えられることを祈念するとして祝辞を結んでいる。被控訴人武村は、前年の昭和五九年の甲賀郡信楽町での御田植祭においても、農業の現状、農林水産業の重要性及び地元の農業施策への言及が少ないほかは、右の同旨の祝辞をしている。
(九) 滋賀県知事である被控訴人武村は、昭和六〇年八月一九日、掌典長に対して昭和六〇年度の新穀献納者の各住所、氏名及び献納の方法(皇居まで持参)を通知した。これに対し、同年九月二日付で掌典長から滋賀県知事に右通知の献穀者の住所、氏名等について承知した旨の回答がされた。
(一〇) 昭和六〇年八月二六日粟の抜穂祭(大祭)が粟の前記斎田で執行された。
右抜穂祭の式次第は、開会の辞、国旗掲揚、神事(修祓の儀、降神の儀、献饌の儀、祝詞奏上、神楽、抜穂の儀、玉串奉奠、撒饌の儀、昇神の儀)、本件奉賛会会長式辞、来賓祝辞、奉耕主謝辞、国旗降納、一同乾杯及び閉会の辞からなる。
右抜穂祭は、上野神社の神官が祭主となり、司会は、米大祭同様前記中川が担当した。
右の神事のうち、抜穂の儀は概ね以下のとおり執行された(その他の修祓の儀以下の神事は、前記御田植祭とほぼ同一である。)。
神官(祭主)が祭壇に一拝するのに合わせ、参列者一同一拝する。神官鎌を本件奉賛会会長である被控訴人奥野に渡す。右の鎌は被控訴人奥野から奉耕主等を経由して刈女に渡される。神官は、斎鎌(儀式用の鎌)を本件奉賛会長、奉耕主及び奉耕主助手に渡す。神官、祭員及び奉耕主等一同斎田に入場して斎田周囲の所定の位置につく。神官、祭員らとともに参列者一同一拝する。斎田中央で、被控訴人奥野、奉耕主及び奉耕主助手が斎鎌で刈りぞめする。「穫り入れ歌」(後記の米の抜穂祭の穫り入れ歌と共通で五番まであり、長々の月日ことなく瑞穂たれ穂(みの)りうれしき豊の秋、以下、新嘗の祭迎えてかかわりの人等(ひとら)寿(ことほ)ぐはちまんの里)のテープが流れる中、斎田において、刈女が鎌で刈り取りをする。刈り取った穂は、斎田脇の検分台に置かれ、本件奉賛会長である被控訴人奥野及び滋賀県知事の代理である八日市県事務所長が検分台の前に並ぶ。被控訴人奥野が「粟六〇穂抜穂いたしました。」と述べ、これに対して右県事務所長が「粟六〇穂検分いたしました。」と述べる。検分終了後一同一拝し、右の穂は、奉耕主から被控訴人奥野、神官と順次渡され、神官はこれを祭壇に備え、その後唐櫃に納められる。
神事の後で、八日市県事務所長は県知事の代理として祝辞を述べた。
(二) 掌典長は、昭和六〇年九月一四日付で滋賀県知事に対し、同年一〇月二九日午前九時皇居内賢所参集所において、本年度の新嘗祭献穀を受納するとして、「参入人員は献穀者とその家族一名宛て計四名及び献穀関係者四名の計八名以内とする。参入者の服装は随意とする。同封の献穀目録用紙及び参入者名簿用紙に記入して所定期限までに送付されたい。献穀者又は同居家族が忌にかかった場合は、献納を遠慮されたい。」旨の通知を発した。滋賀県農林部長は、これを受けて、八日市県事務所長に対し、「掌典長からの右通知の件を承知願うとともに本件奉賛会及び関係者に通知願いたい。献穀目録及び参入者名簿及び他の参加者名簿を農政課宛に提出願いたい。」との通知及び照会をした。
(一二) 昭和六〇年九月三〇日前記の米の斎田において、米の抜穂祭(中祭)が執行された。
当日の関係者の役割分担は、受付が賛助会及び本件奉賛会事務局、祭壇の飾り付け等式場準備が神官、賛助会及び事務局、手洗場が事務局、司会等進行が事務局、ビデオ、カメラ等による記録が事務局、賛助会、昼食準備が奉耕主の親族、賛助会、駐車場の案内・整理が賛助会となっている。祭主は小田神社の神官である。
まず、関係者は、奉耕主宅にて受付を済ませ、湯茶の接待を受けた後、露払、祭員、唐櫃舁、祭主、巫子、奉賛会長、奉賛会副会長、奉耕主、助手、夫人、刈女、指導員、賛助会長、来賓、奉賛会役員、賛助会役員、親族、一般人の順で斎田まで行列し、参道入口御手洗場で手水を使い、所定の席に着き、式次第は、粟の抜穂祭と同じで、開式の辞、国旗掲揚、神事(修祓の儀、降神の儀、献饌の儀、祝詞奏上、神楽、抜穂の儀、玉串奉奠、撒饌の儀、昇神の儀)、本件奉賛会会長式辞、来賓祝辞、奉耕主謝辞、国旗降納、一同乾杯及び閉会の辞と続いた後、入場と同じ順序で退場した。
右の神事のうち、抜穂の儀は前記粟の抜穂祭の抜穂の儀とほぼ同一であり(ただし、県知事は出席しないため、刈り取った米の検分は、八日市県事務所長が同事務所長の立場で「米五〇穂検分いたしました。」と述べた。)、その他の修祓の儀以下の神事は、一部が簡略化されているほかは前記御田植祭におけるのとほぼ同一である。
この間奉耕主は、種子引継後収穫まで、滋賀県改良普及事務所の指導、支援を受けて、播種、田植後は殆ど毎日のように斎田を見回わり、米、粟の成育状況に気を配り、除草、追肥、穂肥(ただし、不浄なものを避け、化学肥料を用いた)、病害虫防除、鳥害防止等を行って、献納穀物の生産に努めた。
(一三) 昭和六〇年一〇月一二日、滋賀県庁の貴賓室において、滋賀県の主催により「新穀検分式」が行われた。出席者は、被控訴人武村、県農林部長、八日市県事務所長、県農政課長であった被控訴人花房、蒲生神崎西部地区農業改良普及所長、両奉耕主夫妻、本件奉賛会長の被控訴人奥野、両賛助会長及び八日市市産業部長等であり、神官等宗教家の出席はない。
式は、県農政課長補佐の司会により、開会の辞、知事の検分、知事あいさつ、本件奉賛会長あいさつ、閉会の辞の順で進行し、閉会後に記念撮影がある。知事の検分は、斎田で収穫した米、粟を精白後、奉耕主及びその家族、賛助会員が中心となって献上用に念入りに選別した精米、精粟を知事が検分するものである。被控訴人武村のあいさつは、斎田管理について奉耕主の労をねぎらい、奉賛会、賛助会等関係者の功労を讃えるなどし、最後に農業への一層の精進と発展を期待し、宮中献上まで健康に留意して大役を無事果たすことを祈念するとの内容である。
(一四) 昭和六〇年一〇月一四日ころ、前記(二)の農林部長からの照会に対する回答として、献穀する精米、精粟の品種、量及び献穀者氏名を記載した新嘗祭献穀目録、新嘗祭献穀参入者名簿及び新嘗祭新穀献納随行者名簿が提出された。右の「参入者」は献穀者等とともに賢所参集所での新穀献上に赴く者であり、「随行者」は参入者とともに皇居まで行くが、賢所参集所での新穀献上には同行しない。右各名簿によると、右参入者は、両奉耕主夫妻、本件奉賛会長であった被控訴人奥野、両賛助会長及び滋賀県農政課課長補佐の計八名であり、右随行者は、本件奉賛会副会長、両賛助会副会長、近江八幡市産業部長等同市関係者三名、近江八幡市農協営農部長、八日市県事務所長、同県事務所農産課長、県農政課主事、県東京事務所主事及び親族四名の計一六名である。
被控訴人武村は、同年一〇月一六日付で、掌典長に対して、右献穀目録及び参入者目録を送付した。
(一五) 皇居での新穀献納の参加者は、昭和六〇年一〇月二八日に出発し、東京都内で一泊して翌二九日の新穀献納に臨んだ。右献納の当日、奉耕主及び本件奉賛会会長(被控訴人奥野)ら前記参入者は、皇居の賢所参集所において、掌典長に唐櫃に入れて持参した精米、精粟を納めた後、皇居内の別の場所で他の県からの献納参入者とともに天皇陛下に拝謁したが、この過程で神事はなかった。その間、前記随行者は、県東京事務所の職員(随行者の一人)の案内で、皇居内を見学コースに沿って見学した。
その後、一行は合流し、右職員の案内で靖国神社及び明治神宮に献穀し、拝殿においてお祓いを受けるなど神官による神事に参加したのち帰途についた。
(一六) 昭和六〇年一一月三日から同月一九日までの間、本件奉賛会の手配により、被控訴人奥野ほか奉賛会関係者(事務局員二ないし三名を含む。)、賛助会関係者及び奉耕主夫妻等が、小田神社、上野神社、神社庁、近江神宮、日吉大社、平安神宮、建部神社、多賀大社、熱田神宮及び伊勢神宮にそれぞれ各斎田及び予備田で収穫した精米、精粟を献穀した。神社庁には、精米八升、精粟四升、その他の神社、神宮には精米一升、精粟五合が献納され、献納に際し、参加者は神社庁を除く神宮、神社で神官によるお祓いを受け、神事に参加した。なお、明治神宮、靖国神社以下伊勢神宮までの各神官、神社等に対する献穀の際は、いずれも玉串料を各一万円ずつ供えた。同年一一月一二日には、神社庁において、本件奉賛会会長、奉耕主、中川ら事務局職員も列席して、神社庁の新嘗祭が執行され、併せて神社庁に献納した新穀を県下の各神社に配布する伝達式が行われた。なお、奉耕主両名は、地元菩提寺へも新穀を奉納した。
(一七) 昭和六〇年一〇月二七日米の斎田が、同年一一月一七日粟の斎田がそれぞれ主に賛助会会員の労力により解体されたが、これに伴う神事はなされていない。
(一八) 宮中に献納された精米、精粟は、白米、粟粥、白酒、黒酒等に加工されて、新嘗祭当日、饗応の神饌(神の召し上がりもの)として奉られた。
神宮、神社に献納された精米、精粟は、大祭としての新嘗祭当日、同様にして神饌として供されたほか、玉串料も神前に供えられた。
(一九) 掌典長は、昭和六〇年一一月二五日付で、滋賀県知事に対し、掌典長作成の各献納者に宛てた「伝達書」(献穀が新嘗祭の儀に供御として供進された旨を伝えるもの)を同封して、右供進の旨の通知を発した。
同年一二月一八日、近江八幡市役所において、新嘗祭献穀伝達式が行われ、八日市県事務所長から献穀者の平井敏雄及び野々村善兵衛に対して右各伝達書が交付された。
(二〇) 昭和六一年二月一三日の種子引継式終了後、本件奉賛会の解散総会が行われて右奉賛会はその活動を終了した。いずれの会合にも神職の出席はなく、神事も行われなかった。
右解散総会の際又は後日公表された本件奉賛会会長被控訴人奥野作成名義の会計決算書によると、支出科目とその金額は、争いのない事実及び前提となる事実の7のとおりである。
(二一) 昭和六〇年度の米、粟の大、中、小祭に際し、本件奉賛会は地元住民に対しその挙行を事前に周知させるような方策はとらなかった。右各祭典に参列するのは、来賓のほかは本件奉賛会及び賛助会の関係者であり、一般の地元住民等は、式場内に入って参列することは許されず、式場の周囲に早乙女役の少女らの家族等が祭典の見物に訪れていたが、その数は特に多くはなかった。各祭典はいずれも厳粛な雰囲気の中で執行され、参列者や見物人が熱狂する場面等はなかった。
各祭典の終了後、直会(なおらい)が行われたが、その出席者は主に祭典に参列した来賓や本件奉賛会及び賛助会関係者であり、他の地元住民がこれに加わることはなかった。直会とは、神事が終わった後、神酒、神饌をおろしていただく酒宴のことである。
昭和六〇年当時、滋賀県内の一般住民の多くは、地元から奉耕主が出ない限り、新穀献納の制度や右各祭典の存在を知らなかった。
また、右当時まで、新穀献納の行事等が、宗教学、民俗学又は歴史学等の研究の対象とされることはなかった。
5 農耕に関する祭祀、神事等と新穀献納行事
<証拠略>によれば、次の事実が認められる。
(一) 古来、米の田植えや収穫には神事が伴ってきたといわれる。現存する神事の中には岡山市の吉備津彦神社の御田植祭のように中世までその淵源を辿れるものもある。近年まで神社又は民間に伝承された田植え神事について見ると、大別して、田植えの模倣儀礼を行うものと、実際の田植えを神事の形式で行うものがあるが、前者がはるかに多いといわれている。
内務省が、昭和初年から一〇年代にかけて、全国の官国幣社ので伝統的神事を調査した結果をまとめた文献には、実際に田植えをする田植え神事について次のような事例が記載されている。
(1) 群馬県北甘楽郡一宮町所在貫前神社
御田植神事と称し、祭日は七月九日である。儀式は、「祓行事」、「宮司以下昇殿着座」、「禰宜以下神饌を伝供す」、「宮司祝詞を奏す」、「各拝礼」、「禰宜以下神饌を撒す」、「各殿を降りて神田に至る」、「禰宜『御タンマイ』を神田の中央に建つ」、「主典早苗を取りて植ゆ」、「退場」の順で執行される。
(2) 愛知県丹羽郡楽田村所在大懸神社
御田植祭と称し、祭日は七月五日である。創始の年代は詳らかでないが、明治五年から一時停廃したが、同一三年に再興したとされる。儀式は、「祭員、参列員着座」、「禰宜以下神饌を供す」、「宮司祝詞を奏す」、「奉耕者祭文殿前庭にて田植唄を奉唱し田植踊を舞う」、「宮司玉串を奉りて拝礼、祭員列拝」、「耕作長玉串を奉りて拝礼」、「宮司早苗を耕作長に授く」、「禰宜以下神饌を撒す」、「神田に進む」、「主典一員大麻を取りて神田を祓う」、「田植、この間田植唄を奉唱し田植踊を舞う」、「退下」の順で執行される。
(3) 静岡県富士郡大宮町所在浅間神社
御田植祭と称し、祭日は七月七日である。一連の儀式には次のような行事等が含まれている(相当部分を省略)。すなわち、一同着座に始まり、「修祓」、「献饌、同時に早苗等を神前に供える」、「祝詞奏上」、「玉串奉奠」、「主典以下早苗を田長に渡す」となり、次いで一同御田(御田の周囲には青竹を立て注連縄を張る。)に向かい、そこで、神幣奉安等の神事がなされた後、御田植の行事に入る。田代役が御田に下りて畔を作り田を鋤いたりしてから、田長が早苗を宮司以下の神職、早乙女に渡し、宮司、禰宜以下神職、田長の順に御田にそれぞれ苗を三度挿し、その後に早乙女が御田に苗を植える(ただし、現今は早乙女は植える真似をするだけである。)。この後、田植唄奉唱、撒饌となる。
(4) 福井県敦賀市所在気比神宮
御田植祭と称し、祭日は六月一五日である。儀式は、献饌、祝詞奏上等の通常の祭儀の後、膳部神人(苗を配る者)が苗を苗乙女(ただし、当時は全部男子)に配り、田長が、柄振を持って三返(神殿前の)白砂を均し謡ってから、苗乙女が苗を白砂に植え謡う。右配苗以下と類似の所作が何度か繰り返された後、撒饌、閉扉、各退出となって終わる(なお、白砂に苗を植えることからすれば、模倣儀礼に属するとも考えられる。)。
(5) 京都市右京区所在松尾神社
御田植祭と称し、祭日は七月二三日である。式次第の大要は、「禰宜以下神饌を供す」、「宮司祝詞奏上」、「宮司玉串奉奠」、「禰宜以下神饌を撒す」、「苗を神前に供える」、次いで田植式となり、「禰宜主典一人着座」、「植女着座」、「主典祓を行う」、「禰宜昇殿」、「主典を階を下りて苗を受け付床の案上に置き植女に渡す」、「植女拝殿の周囲を三周して退出」となった後、「植女奉仕終りて苗を持ち帰り、田に分挿し其の田の豊穣を祈る。」とのことである。
(6) 滋賀県犬上郡多賀村所在多賀神社
御田植祭と称し、祭日は七月一日である。一連の儀式には次のような行事等が含まれている(一部部分を省略)。すなわち、本殿において、「献饌」、「祝詞奏上」、「玉串奉奠」、「榊舞」、「早苗女に苗を授く」、「撒饌」等が執行された後、一同御田斎場に向かい、同所において、「早苗女田植女に苗を渡し田植女五人之を植え始む」との田植えの儀式がされた後、舞女の舞等がある。
(二) 大阪府学務部が昭和九年に編纂した同府下の郷社の伝統的神事に関する文献には、実際に田植えをする田植えの神事として北河内郡牧野村にある片野神社の御田植祭について、次のような記述がある(他の郷社の田植神事はすべて模倣儀礼である。)。
祭日は六月一四日で、神事は次のとおり進行する。奉告祭の後、神饌を供し、祝詞を奏し、玉串奉奠となる。神饌及び早苗を撒して、植子、青年団員に御酒、御食を進める。これが終わって神職が先導し、稚子が早苗を、世話人が御食、御酒をそれぞれ奉じて御田(御供田)に向かう。御田において、神職が散米、散酒の祓をし、稚子、植子に早苗を渡す。植子はこれを御田に植える。これが終わると、神職は、稚子等を従えて本社神前に帰参して御田植終了を報告して神事が終わる。
(三) 滋賀県においては、前記多賀神社の御田植祭のほかにも、農耕に関する次のような伝統的行事が現存する。
滋賀県でも、実際に田植えをする神事は少なく、正月から節分過ぎ位までに行われる豊作祈願の与祭が多く見られる。与祭には、実際の田植えの前にその真似をする前記のような模倣儀礼や豊作の占いなどがある。著名な与祭として、男女の人形を合体させて豊作を祈願する「山の神」の神事、模倣儀礼をする「御田(オンダ)」、粥を炊いて豊凶を占う粥占い、種がら、木の小枝で作りものをしたり、わらで松明を作ってこれらを燃やして豊作を祈願する「火祭」、餅をついて氏神や観音堂に持ち込む「オコナイ」等がある。これらの与祭の多くには神職が関与する。
秋の収穫祭としては、小豆粥を炊いたりして神社を中心に行事をする「ダイジョゴ」、ずいきで神輿の形を作り神社へ運び込んだりする御上神社の「ずいき神輿」等がある。
これらの行事の中には、鎌倉、室町時代まで淵源を辿れるものもある。
滋賀県において現存するこれら農耕に関する行事で、本件の献穀行事を構成する御田植祭等の各祭典と順序、次第(祭式)が一致又は極めて類似するものはない。
(四) 神道においては、起居進退等の「作法」が組み合わされて「行事」(降神、神饌の献撒等)ができ、行事が組み合わされて「祭式」(祭典の順序、次第)となる。
前記のように、明治時代になると、明治四年五月社格制度により、神社は、官幣社、国幣社、府県社、郷社に格付けされ、同年一〇月、四時祭典定則及び地方祭典定則が定められ、いかなる祭祀が行われるべきかが定められ、地方社以下の神社には、後者が適用された。そして、明治八年四月の式部寮達「神社祭式」によって社格ごとの神社の祭式の統一が図られ、さらに、明治四〇年六月内務省告示「神社祭式行事作法」が制定され(昭和一七年改正)、行事作法も統一された。大正三年一月には前記のとおり「官国幣社以下神社祭祀令」により神社祭祀の大、中、小祭の区分及び各々に該当する祭祀の種類が定められたが、同年三月には内務省令「官国幣社以下神社祭式」が制定され、以後数度の改正を経て昭和二一年二月まで右の祭式が用いられた。
右「神社祭式行事作法」及び「官国幣社以下神社祭式」は、本件新穀献納行事を構成し、また、戦前の新穀献納に際しても執行された播種祭、御田植祭及び抜穂祭等の祭式について定めていない。右各祭式は、主として官幣社及び国幣社の祭式について定めたもので、本件新穀献納行事を構成する祭祀は「諸祭」又は「雑祭」と呼ばれ、原則として、国家による規制の対象の外に置かれたためである。官国幣社特殊神事調によると、本件新穀献納行事中の御田植祭等における行事作法には、右「神社祭式行事作法」での定めと共通する部分や酷似する部分もあり、その影響を受けたと見られる雑祭式典範(昭和一三年刊行)には、斎田祭、田植祭、抜穂祭の祭式の例が記載されている。
本件新穀献納行事の斎田の構造は、そこに記載されている斎田祭、田植祭及び抜穂祭の斎田の構造とほぼ同一であり、その祭式も、以下のようにそこに記載されている祭式次第と極めて似ている。すなわち、
(斎田祭)
修祓、先、著床、次、斎主降神奉仕ス、警蹕、次、神饌ヲ供ス、次、祝詞ヲ奏ス、次、水田ヲ祓フ、次、荒田ヲ打ツ、次、種米ヲ配ツ(斎主播種ヲ関係主任者ニ授ク、之ヲ耕夫長ニ伝ヘ、耕夫長営田ニ播ク)、次、斎主玉串ヲ奉リテ拝礼、祭員列拝、次、関係参列員玉串ヲ奉リテ拝礼、次、神饌ヲ撒ス、次、斎主昇神ヲ奉仕ス、警蹕、退下
(田植祭)
修祓、先、著床、次、斎主降神ヲ奉仕ス、警蹕、次、神饌ヲ供ス、此間奏楽、次、祝詞ヲ奏ス、次、役所二人祓具ヲ執リテ水田ヲ祓フ(祓具四種)、次、斎主早苗ヲ耕作長ニ授ク、次、耕作長早苗ヲ植女ニ配ツ、次、植女等早苗ヲ水田ニ植ウ、斉主玉串ヲ奉リテ礼拝、祭員列拝、次、耕作長玉串ヲ奉リテ礼拝、助手、植女列拝、次、参列員玉串ヲ奉リテ拝礼、次、神饌ヲ撒ス、次、祭主昇神ヲ奉仕ス、警蹕、次、退下
(抜穂祭)
修祓、先、著床、次、斎主降神ヲ奉仕ス、警蹕、次、神饌ヲ供ス、次、祝詞ヲ奏ス、次、抜穂ヲ行フ、次、斎主玉串ヲ奉リテ拝礼、祭員列拝、次、耕作長及耕夫等玉串ヲ奉リテ拝礼(耕女アルトキハ耕夫耕女トス)、次、参列員玉串ヲ奉リテ拝礼、次、神饌ヲ撒ス、此間奏楽、次、斎主昇神ヲ奉仕ス、警蹕、次、退下
6 他県における新穀献納の実状
調査嘱託の結果によれば、平成元年までの滋賀県を除く全国の都道府県の新穀献納への関与等について次の事実が認められる。
(一) 新穀献納のための行事のある都道府県が二六を数えるが、二〇の道府県ではそのような行事はない(ただし、県の主宰では実施していないとするものが二県ある)。
右二六の都道府県で実施されている行事は、播種祭、田植祭、抜穂祭、収穫祭(米)、刈穂祭などである。
右の行事の主催者は、献穀者が最も多く、行事があるとする都道府県の半数を超える。他の主催者は、奉賛会、実行委員会、献穀者と市町村(共催)等である。
(二) 右行事の主催者の中に都道府県又は市町村の特別職又は職員が入っている都道府県は一〇県を超える。また、献納行事に都道府県幹部が出席する都道府県が約半数ある。
(三) 宮中献納については、地方公共団体が新穀献納行事を行うと否とにかかわらず、すべての都道府県又は市町村の職員が同行しており、献納用の新穀を郵送している沖縄県は唯一の例外である。このうち二、三を除く都道府県では、職員の出張はすべて公務扱いとされている。
(四) 宮中献納に関連して、九の府県が、会食費、自動車借上料、献穀を納める桐箱代、献穀者の旅費、昼食費等に公費を支出している。
(五) 宮中献納を除く献納行事に報償金、米穀生産対策費、祝金等の名目で公費を支出しているのは、七府県、そのうち市町村も公費支出する例は四、市町村のみが公費支出をする例は三である(ただし、市町村の実状を把握していないと思われる回答も相当数あり、市町村に関しては必ずしも正確な数字ではない)。
(六) (五)の支出金額をみると、府県の場合一二万円から三〇万円まで(金額の記載のないものがある)、市町村の場合一八万円から二〇〇万円まで(同様に金額の記載のないものがある)である。
(七) 宮中以外に献納するのは七県ある。献納先は、明治神宮、靖国神社、伊勢神宮及び宮崎神宮である。このうちの多くは献納者による自発的意思によるものである。
7 新穀献納行事の性格
(一) 前記認定によれば、新穀献納行事は、その発案にかかる岩倉具視の内諭に、起源が天孫降臨にあるとされる新嘗祭に対する国民の謹慎敬恭の情の醸成、民情の融釈と並び、農業を本とし、国民をして本に励み、米を貴ぶの風を起こさせること、献納により国民に米穀を貴重し、農業を勉励するの風を起こし、米の外国輸出等国家経済に対する好影響を与えることが指摘されているのを初めとして、明治二五年の府県知事の請願にも、献納により国民は貴重な神饌を献ずる栄誉を得、わが国の大本たる農事を貴ぶ風を起こし、国家を利することが掲げられ、滋賀県の同年の新嘗祭供御献納者心得にも、敬神尊皇の大義を重んじ平素品行を慎み農事に勉励し、一般の模範となる心懸けでいるとして、農業目的が一つの目的として記載されていることによれば、発案及び実施の当初から、農業振興目的をも有していたことは明らかである。大正五年から農商務省が皇室に対する供進をその監督下で行うとしたことも、同省の管轄事項である農政との関連を有すると判断されたためと推測される。滋賀県では、第二次大戦直後も「農事御奨励の御趣旨により篤農家及び精農家に差許されたもの」として、天皇に対する畏敬の念等の目的とともに、農業に精励する気風の醸成、これによる農業重視の政策の一環として勧めてきたことによれば、第二次大戦前直後までのそれは、皇室祭祀、天皇崇拝と深く結びつきながらも、右の農業振興目的を有していたことは否定できないところである。
第二次大戦後、神道指令及び日本国憲法の発布により、新嘗祭が農商務省の管轄から離れ、宮中での新嘗祭の挙行が純然たる皇室の私的行事としての性格を持つようになったが、その後も、滋賀県では、昭和二七年の伺い文書で、献穀を皇室に対する親愛感を助長し、興農運動、増産奨励に寄与する行為と捉え、その後、新嘗祭の伝統的な慣例により、全国民から自主的に献納し、農作物の収穫をよろこび、農業への理解と情操をはぐくみ、農業の発展を願うとの趣旨のもとに新穀献納行事が継続されてきたところ、本件奉賛会の事業計画にも、米大祭における被控訴人武村等の挨拶にも、同趣旨の文言があって、これらの事実からすると、戦前と戦後とで新穀献納行事そのものの性格に変容があったか否かは必ずしも明らかではないが、その目的の一つが農業振興にあったことは明らかであるといわなければならない。
控訴人らは、この点につき、農業振興目的は、歴史的には、民意の融釈、自由民権運動の抑圧、神権天皇制、国家神道体制の強化等の真の目的に対する表向きの理由に過ぎず、第二次大戦前の新穀献納行事により米穀の輸出等農業振興目的が達成されたことはないと主張し、これに沿う証拠(甲七八号証、七九号証の1、2、一〇〇号証、証人岩井忠熊の証言)を援用する。これらの証拠によれば、第二次大戦前の献穀に、控訴人ら指摘の側面がなかったとまで断定することはできないが、新穀献納は、献納者の名誉感情を通じ、篤農家又は精農家の農業生産活動に対する助長、奨励の効果があることは、前記認定のとおり各種文書に明らかにうたわれているだけでなく、戦前戦後を通じ、実際上も右の効果があることを否定することはできない。
このことは、滋賀県において、献納にかかる米、粟の品種が、必ずしもその栽培が直ちに新種の改良、特産品の開発、宣伝等に資するものとはいい難い旧来の伝統的品種であったとしても同様である(強いていえば、伝統品種の栽培における農耕技術の保存等に意味を認めることができないではない。)。
右のとおり、本件奉賛会の行う新穀献納行事は、献納者にふさわしい篤農家として選定された奉耕主の栄誉を讃え、献納の過程を通じて農業活動に対する喜びと意欲を育み、技術的にこれを支援するという農業振興目的並びにこれを通じ、皇室への敬愛の情を育むという目的を有していたものと認められる。
(二) 他方、右認定事実によれば、右(一)の目的のほかに以下のとおり節目に行われる宗教的行事それ自体をも事業の目的としたものであると判断される。
(1) 新穀献納行事を通じて生産された新穀は、宮中、靖国神社並びに明治神宮、伊勢神宮等天皇家とのゆかりの深い全国の主たる神宮のほか、いくつかの神社及び神社庁を通じて県下の各神社に対し、皇室祭祀又は神社の祭祀として挙行される新嘗祭の神饌に供されるべき素材を献納することを目的とし、かつ、実際もそのように献納が行われていることからすれば、新穀献納行事に参加する者の個人的信仰はともかくとして、間接的には、神道の挙行する新嘗祭への精神的賛同と全く無関係ではあり得ない。
(2) 本件新穀献納行事において、後記のとおり、節目行事が神道行事で行われたのは、第二次大戦前から神道によって行われてきた歴史的経緯の踏襲及び古来米の田植えや収穫には神事が伴ってきた側面が大きいと解されるのであるが、それとともに、献納先である皇室や各神社において行われている祭祀と矛盾しない祭祀ないし儀式が選択された結果であると推認される。
(3) 本件新穀献納行事において、各神社への新穀献納の際には玉串料が奉納され、神社拝殿において神官による奉耕主等参列者の御祓がされているから、献納が神道の方式に従って行われたことは明らかであるほか、少なくとも、別紙近江八幡新穀献納事業経過表番号一一の奉告祭、同一四の早乙女等選任式、同一九の米小祭(地鎮祭、播種祭)、同二三の粟小中祭(地鎮祭、播種祭)、同二七の米大祭(御田植祭)、同三〇の粟大祭(抜穂祭)、同三三の米中祭(抜穂祭)が神道行事そのものであることは以下のとおり明らかである。
<1> 行事の内容をみると、挨拶その他の世俗的な行事に比較し、神事が中心となっていると認められるところ、行事の中心としての神事がいずれも神職又は神官の主宰のもとに挙行されている。
<2> これらの行事が挙行された場所は、神社又は斎田であるが、神社である場合はもちろん、斎田で行われた場合も、斎田の構造は、周囲を竹矢来で囲み、青竹を斎田の四隅に立てて注連縄を巡らし、一般的な場所との間に結界を設け、その中に参道があり、参道の奥には鳥居や標柱を立て、行事の際はその前に祭壇を設け、出入口には御手洗場を設けるなど、周囲の場所とは区別された神聖、清浄な特別の場所として構築されており、いわば、斎田そのものが神社固有の境内と同様の神聖な場所としての意味を有する。
<3> 祭式(式次第)やそこでの儀式礼拝の方法その他は、神道の固有の方式によるものである。すなわち、神事は、修祓の儀(参列者一同の御祓)に始まり、神職の唱える警蹕の内に神が舞い降りる降神の儀、神に対する捧げ物をする献饌の儀、神に対する祈りを行う祝詞奏上、神に対する音楽の奏上である神楽の奏上の後、当該節目行事の中心である御田植、抜穂等が行われ(それ自体も慣例に従った順序と儀礼的作法を有する。)、関係者の玉串奉奠が行われ、撒饌の儀(神に対する捧げ物を下げる儀式)の後、神職の警蹕の内に神が天に帰って行く昇神の儀をもって終了するというもので、大正、昭和期までに制定された神社祭式行事作法に則ったものではないが、これに影響を受けた部分も認められ、前記の5に認定の各神社で行われている神事(諸祭又は雑祭と呼ばれるもの)の祭式と比較して、式次第はより厳粛で、鄭重である。この祭式は節目行事に共通するものと解され、新穀献納行事に特有のものであって、昭和六〇年度のみならず、前後の時期を通じて同一である。
また、列席の関係者が所定の場所に就き又は離れるについては、神道の方式に従い一拝し、玉串奉奠に際し二礼二拍手一礼するなど、神道固有の礼拝方法が行われており、神職は祭器具を用い、神職はもちろん、その助手、奉耕主、奉耕主助手などは儀式用の装束(祭主は斎服、祭助手は浄衣等、奉耕主及び奉耕主助手は烏帽子の正装、その他の玉姫、刈女は、それぞれの衣装)をまとって行事を担っている。
これらの事実からすれば、これが神道行事であることは否定できない。
(4) 右の行事に参加した個々人の個人的信仰、行事に対する認識は明らかではないが、外形的な儀式、礼拝は右のとおり神道方式で行われ、参加者の全てが所定の所作を行ったものと推測される。
(5) (3)の行事は一般人からみて神道行事そのものと評価されるものといえる。
(6) 右の節目行事以外の行事は、神職が主宰したものはなく、これらの行事、会合等は、それ自体宗教的色彩を有するものとはいい難い。しかし、このうち節目行事の打ち合わせ、予行等は節目行事の準備そのものと解されるほか、斎田構築、その撤去等は神道からみて神聖、清浄な場所を作る宗教的な性質を有し、その他の行事は、本件奉賛会の会合を除き、その準備ないし後片付けとしての意味合いが濃いものと解することができる。
(7) 本件奉賛会の予算支出の点からこれをみても、斎田構築及び管理費用、新穀献納旅費、祭主お礼、各祭典記念品、玉串料、祭典用品代、唐櫃、直会、装束借り上げ代など宗教的行為に直接に関係する支出が総予算の七割以上を占めている。
(8) 献納にかかる新穀の品種は、滋賀県ないし近江八幡市の推奨品でも新品種でもなく、従来の献納にかかる伝統的品種であり、虫害に弱く、倒れ易いなど生産には苦労を伴うが、品種としては美味・良品で、これは献納の歴史的経過(大嘗祭への献納品種)を踏まえた結果である(なお、品種の指定が掌典長又は神社からされたものとは認められない)。
(9) そして、種子引継に始まり、苗、刈穂、選別後の新穀献納に至るまで、献納にかかる米粟は、関係者により細心の注意をもって鄭重、大切に取り扱われている。すなわち、種子、苗、刈穂、収穫された米粟は、節目儀式において唐櫃、三方等に収められるなど、神への捧げ物としての取り扱いが一貫してされている。耕作に際しては不浄な肥料を用いないよう配慮され、収穫後の選別にも多大の労力が注がれるなど、終始不浄性が嫌われ、神聖な献納品として取り扱われており、いわば、献納すべき米粟こそが各種行事の中心にあると評することもできる。
以上の検討によれば、新穀献納行事は、皇室又は神社の新嘗祭への献納を目的とし、献納される米及び粟に対し、神饌として供せられるにふさわしい清浄性及び神聖さを獲得し、他方、献穀が成功裏に行われることを祈願するため、その節目ごとに不浄を祓い、併せて行事の成功を祈願する各種儀式を行うことをも同時に目的とするものということができ、右儀式が神道行事により行われていることも明らかというべきである。
(三) 被控訴人らは、新穀献納行事の中で行われる地鎮祭、播種祭、御田植祭等に神道儀式が採用されたのは、民間において古くから米粟の生産収穫に伴う祭礼が一般的に神式で行われてきたからに過ぎず、これら個々の節目行事はもちろん、全体としてみても、新穀献納行事は宗教的行為には当たらないとし、したがって、本件新穀献納行事は、専ら農業振興目的を有する行事であると主張する。
しかし、そのことは、右行事の宗教性を否定する理由となるものではない。
(四) 以上によれば、本件新穀献納行事は、農業振興目的、皇室に対する親愛の情を育むとの前記目的のほか、献納される穀物に清浄性、神聖さを付与すること等を目的とした宗教行事を行うこともその主要な事業の一つであって、新嘗祭への献納を目的として一貫して神道の方式により各種の行事、儀式が行われる点で、全体としてみても、宗教的意義を色濃く帯びているということができる。
四 近江八幡市の公金支出の違法性について
1 いわゆる政教分離原則について
控訴人らは、本件新穀献納行事が憲法二〇条一項後段、三項、八九条が定めるいわゆる政教分離の原則に違反すると主張する。
一般に、政教分離の原則とは、国家、地方公共団体は、宗教そのものに干渉すべきでないとする国家の非宗教性ないし宗教的中立を意味するものとされているところ、明治維新以降のわが国の過去の歴史に鑑み、日本国憲法において二〇条及び八九条が規定されたことによれば、憲法は、国家と宗教との完全な分離を理想として、国家の非宗教性ないし宗教的中立を確保したものと解すべきである。
しかし、国家活動の社会生活への規制、関与は、教育、福祉、文化等への援助助成等の諸政策に及び、これを実施するに当たって国家と宗教との完全な分離を実現することは実際には不可能であるから、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提としたうえで、国家と宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
そして、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、そのかかわり合いが右の相当とされる限度を超えるものを指し、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は抑圧、干渉等になるような行為をいうものと解すべきであり、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面にのみとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。
憲法八九条が禁止する公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のため支出すること又はその利用の用に供することも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものというと解するべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない(最高裁平成四年(行ツ)第一五六号同九年四月二日大法廷判決・民集五一巻四号一六七三頁、最高裁昭和五七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七七頁、最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁)。
2 近江八幡市の補助金の使途目的について
左記の点を考慮すると、近江八幡市の新穀献納奉賛会助成事業補助金としての本件公金の支出は、本件奉賛会に対し全く自由な使用に任ねて贈与したものではなく、おおよそ決算報告書記載のような使途(争いのない事実及び前提となる事実7)に用いさせるために支出したものと認められる。
(一) 滋賀県においては、持ち回りで各郡市が新穀献納行事を担当する慣例となっていて、近江八幡市では、昭和四一年度にも新穀献納行事が行われたことから、同市は、本件奉賛会の目的、事業活動の内容、支出費用の内容などを知っていた。
(二) 本件奉賛会の事務局を担当した中川は、過去及び前年度の新穀献納行事の実績等を引き継ぎ、これを参考にして、会計予算書、事業計画書、収支予算書を作成し、これを近江八幡市に提出した。
(三) 本件奉賛会の会計予算書(<証拠略>)には、争いのない事実及び前提となる事実7記載の会計決算書と同様の支出科目、予算額、説明があり、その予算額は、会計決算書に記載された現実の支出額に極めて近い額が記載されている。
(四) また、昭和六〇年度の近江八幡市への補助金申請に関連して作成された本件奉賛会会計予算書(<証拠略>)は、予算規模が小さいものとなっているが、以下のように使途にかかる具体的説明がある。
旅費九四万円(新穀献納(宮中、靖国、明治)四八万円、県外献納(上記以外)三二万円、県内献納日当一四万円)、報償費一三七万円(各神宮謝礼一四万円、楽人謝礼一〇万円、御子謝礼四万円、玉串料一二万円、大祭記念品五〇万円、その他謝礼及び記念品四七万円)、消耗品費八二万四〇〇〇円(神饌物料三万五〇〇〇円、奉耕用器具二〇万円、引継物品代五万円、その他五三万九〇〇〇円)、食糧費一三五万二〇〇〇円(奉賛会総会二〇万円、打ち合わせ一九万円、各祭(大・中・小祭米粟)七〇万円、その他二六万二〇〇〇円)、使用料及び賃借料二九万円(各式典器具借上料一二万円、貸衣装・クリーニング代一二万円、その他五万円)、斎田構築及び管理費七五万三〇〇〇円(斎田構築費六五万三〇〇〇円、育苗管理費一〇万円)、以上合計五五二万九〇〇〇円
(五) 右(三)、(四)の会計予算書は、本件奉賛会の計画書及び収支予算書に添付され、近江八幡市に提出されていて、予算議決及び本件公金支出に際し、被控訴人奥野らがこれを検討している。
(六) 昭和五九年度予算から交付された当初の補助金二五〇万円について、本件奉賛会から昭和六〇年三月三〇日付で補助事業実績報告書(<証拠略>)が近江八幡市長に提出されているが、その支出区分にも、旅費、報償費、消耗品費、食糧費、使用料及び賃借料、斎田構築及び管理費、賛助会活動費等の記載がある。
(七) 本件奉賛会に対する昭和六〇年度予算二五〇万円の交付(二度目の公金支出)は、(六)の提出後の昭和六〇年六月三日にされている。
(八) 近江八幡市より本件奉賛会に交付された補助金のうち、未使用分一二万円が同市に返還された。
3 憲法二〇条三項違反について
近江八幡市の補助金は、右のような使途に用いさせるために、新穀献納奉賛会助成事業補助金として交付されたものである。
ところで、献納される新穀は、新嘗祭において、神饌として神前に供えられるものであり、新嘗祭は皇室及び各神社において重要な祭祀として取り行われているから、神道において新穀献納は重要な宗教的意義があると考えられていることが明らかである。
そのうえ、献納された新穀は、神饌として供されるにふさわしい清浄性と神聖さを付与するため、不浄を祓う神道儀式を行いながら、特別に作られた斎田で、栽培・収穫されるものであるから、新穀の奉納の宗教性は、玉串料に比してなお強いものといえる。(なお、本件では玉串料の支出もある。)新穀献納に至るまでの行事は、前記三に認定のとおり、特に神聖な場所として作られた斎田において、神道儀式が多数回行われるものであって、全体として宗教的意義を色濃く帯びている。
本件補助金は、四八八万円と多額なうえ、本件奉賛会の各支出(それは補助金支出の目的である。)は、新穀献納旅費、祭主お礼、各祭典記念品、玉串料、祭典用品代、唐櫃、直会、各献納装束借り上げ代、斎田構築管理費など、宗教的行為に直接に関係する支出が七割以上を占めている。
このような費用に充てさせるために、近江八幡市が多額の補助金を支出することは、一般人に対して、同市が神道を特別に支援しており、神道が他の宗教とは異なる特別のものとの印象を与え、神道への関心を呼び起こすものといわねばならない。そして、一般人の意識がこのようなものであれば、近江八幡市としても、献納とそれまでの本件奉賛会の行為が宗教的意義を有するとの意識を持たざるを得ないと思われる。
本件奉賛会の行う新穀献納行事は、農業振興目的と皇室に対する敬愛の情をはぐくむという目的をも有していたことは、前記判断のとおりであり、これらの目的自身は正当合憲のものである。
しかしながら、これらの目的は新穀献納行事によらなくとも、他の方法で実現できるし、日本国憲法制定の経過(最高裁民集五一巻四号一六八三頁)に照らすと、本件のような宗教色がきわめて強い行為をさせるための多額の支出が、相当とされる限度を超えないものとして、憲法上許されることになるとはいえない。
以上を総合的に考慮判断すると、近江八幡市の本件奉賛会への四八八万円の本件補助金支出は、その目的が宗教的意義を有することを免れず、その効果が神道に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる近江八幡市と神道とのかかわり合いが我が国の社会的、文化的条件に照らし相当とされる限度を超えるものであるから、憲法二〇条三項に反し、違法である。
五 滋賀県の公金支出の違法性について
1 憲法八九条違反について
控訴人らは、奉耕主は、本件新穀献納行事の主役であり、献納穀物の生産及び献納の主体であって、本件奉賛会と同様に宗教上の組織若しくは団体に当たると主張する。
しかし、奉耕主は、本件奉賛会の創立総会で選定される奉賛会会員の一人に過ぎず、新穀献納行事において、各種儀式の中心として儀礼的行為を行うが、他方では、生産の担い手であり、奉耕主にとっては、献納穀物の生産こそが中心的役割であって、実際も、播種後は連日のように田畑を見回り、米又は粟の育成状況に応じ、農耕の技術を駆使して生産に携わったものである。新嘗祭への献穀目的を重視してもこの生産活動をもって宗教的行為ということはできない。
更に、奉耕主が、本件奉賛会の趣旨に賛同して献納穀物の生産に携わり、献納の主体として皇室及び各神社に新穀を献納する点で、全体として宗教的意義を有する本件新穀献納行事に関与したことは事実であるが、その個人的信仰は不明であり、滋賀県からの報償金を仏壇にそなえ、新穀を寺へも奉納していることからすれば、他の本件奉賛会会員と神道に対する信仰において一致するものとは認め難い。
この点に関する控訴人らの主張は、理由がない。
2 憲法二〇条三項違反について
(一) 滋賀県の各奉耕主に対する本件公金支出は、以下のとおり憲法二〇条三項に違反するものとは判断されない。
(1) 公金は、報償金として交付され、支出の趣旨は奉耕主の生産の労苦をねぎらい、生産過程で要する費用を補うというもので、専ら農業振興目的である。
(2) 近江八幡市の公金支出と異なり、本件新穀献納行事の各種行事に費やされるべきとの使途の特定はなく、支出者としてもその使途について認識がない。
(3) 支出者は、これが献穀に関連して生ずる奉耕主の出費を補うものとして使用されることは認識し得ても、実際の使途は、各奉耕主に委ねられ、使途を限定するものではない。
(4) 各奉耕主が右の金を何に用いたかは、証拠上明らかでなく宗教的活動のために用いたとの証拠はない。
(二) 控訴人らは、本件新穀献納行事に占める滋賀県の主導的役割を強調し、滋賀県の関与なくして、本件新穀献納行事はあり得なかったとし、また、被控訴人武村及び知事代理として行事に出席した滋賀県職員が、米、粟の検分役を勤め、農業担当者(普及改良事務所)等の献納穀物生産における協力関与、行事における祭事への参加等の事実から、滋賀県は、憲法二〇条三項に違反して本件新穀献納行事に県ぐるみの関与をしていると主張する。
しかしながら、本件で憲法違反を問われているのは、本件公金支出のそれであり、右認定にかかる滋賀県の職員の行為そのものではない。本件公金支出は、前記の目的によるものであり、この支出と滋賀県職員の右の行為との間に直接の関連を認めることはできない。
3 地方自治法違反について
控訴人らは、滋賀県の奉耕主に対する本件公金支出が公益上の必要のない補助金支出に当たり、地方自治法二三二条の二に違反すると主張する。
しかしながら、本件公金は、前記認定のとおり、報償金として交付され、支出の趣旨は、奉耕主の生産の労苦をねぎらい、生産過程で要する費用を補うというもので、その性質は農業奨励金ともいうべきものである。新穀献納行事において新穀の生産を担う奉耕主に対し、報償金を交付することは、生産を通じて奉耕主に農業の喜びと誇りを与えることとなり、ひいては農業振興という公益に資することとなるから、地方公共団体の責務と権限(地方自治法二条三項五号、一三号)にも適い、公益上の必要が肯定される。
六 被控訴人奥野、被控訴人高木の過失について
近江八幡市の奉賛会に対する四八八万円の支出は違法であるが、被控訴人奥野、被控訴人高木において、この違法支出につき故意過失があったと認めるべき証拠はない。その理由は以下のとおりである。
1 <証拠略>によれば、以下の事実を認めることができる。
(一) 昭和五五年一二月一六日の滋賀県定例議会の一般質問において、鹿野昭三議員は県からの補助金支出の額や知事の行事出席予定を質問したのち、穀献祭行事が憲法二〇条三項、八九条の政教分離に抵触するのではないかとの質問をした。
被控訴人武村は、津地鎮祭の最高裁判決が合憲と判断した中で献穀行事全体を考えざるを得ないこと、宗教的色彩が全くないとはいえないが、積極的に宗教を援助、助長するものではなく、宗教に干渉を加えるものでもなく、右最高裁判決を新穀献納行事に素直にあてはめると、憲法上の問題はない、ただ、賛否両論があってもおかしくはないので、より宗教的色彩が濃くなることがあってはならないので、簡素化、実質化に工夫をこらしていきたい旨答弁した。
(二) 昭和五七年五月滋賀民報に「憲法違反の疑い濃厚、天皇へ『献納』される米、アワのお田植祭、献穀祭行事国家神道の亡霊」との見出しで、岡田精司大阪工業大学教授の投稿にかかると推測される記事が掲載され、新穀献納行事の歴史的由来、滋賀県における実情が紹介され、神社神道の行事であること、県・市から経費が支出されていることは憲法上の重大問題であり、戦前の国家神道の行事が全くの反省なしに続けられてよいものであろうか、との意見が表明された。
(三) 昭和五九年四月五日開催の第一〇一回国会衆議院内閣委員会において、皇室経済法施行法の一部を改正する法律案の審議に関連して、柴田睦夫議員から政府委員に対し、以下の点につき質問がされた。<1> 掌典長から都道府県知事宛に新嘗祭に協力を要請する内容の通知を出すことが憲法二〇条に違反しないか、<2> 昭和五四年度の滋賀県における献穀祭行事が政教一致で行われている経過に照らし、このようなことは憲法上許されるかどうか等。
宮内庁政府委員は、<1>につき、献穀者たる篤農家のあっせんは、県の方がよりわかりやすいということでお願いしていることがあるが、そのことは直接に新嘗祭の祭事に参加させることをお願いしているとは考えていない旨、また、<2>につき内閣法制局政府委員は、津地鎮祭の最高裁判決を引用して、その基準によって合憲とされるか否かは、事柄の性質上地方公共団体が個別の状況に応じ自主的に判断すべきものと考える旨答弁した。また、自治省説明員も同旨を、宮内庁政府委員は<1>と同様の答弁をし、更に内閣法制局政府委員は、新嘗祭のための献穀希望者による献穀それ自体は、儀式のための素材を提供する行為に止まり、宗教的活動に当たるとまではいえない旨、中西国務大臣は、素材提供すること自体は神事そのものではないと思う、市、県の費用支出も神事そのものではなく素材を提供するという事前の事柄についての費用であるから神事そのものではないとそれぞれ答弁した。
(四) 昭和五九年一二月の近江八幡市議会において、本件奉賛会に対する補助金交付等につき憲法上の疑義があるとの岡崎議員からの質問があった。
被控訴人奥野は、古い昔からの発掘その他からして神さんにお米を感謝して捧げるということは神世から続いていることで、宗教行事とは理解していないと、小西産業部長は、献穀行事は、農作物の収穫を喜び、農家への理解と情操をはぐくみ、農業のますますの発展を願うとの趣旨のものであり、特定の宗教団体、宗教組織に対し、財政的支援をするものではないと答弁した。
桧山議員(控訴人桧山)の同趣旨の質問に対し、川端総務部長は、本件奉賛会が事業として、(宗教性の)薄れた形の宗教活動をしたとしても政教分離に違反しないとの意見を述べ、被控訴人奥野は、一〇年、二〇年と慣習、習慣がスムーズに行われていることも大事な要素であるとの答弁をした。
(五) 昭和五九年一二月一八日の毎日新聞に「新穀献納行事に疑問」との増田耕一記者の記事が掲載され、新穀献納行事のあらまし及び甲賀郡信楽町の例を紹介し、県や自治体主導で、予算の大半を公的機関が支出している点及び地鎮祭と天皇陛下による宗教行為である新嘗祭への献納が同一レベルで扱えるか疑問が残る旨が記載された。
(六) 平成九年一月一四日、滋賀県、市長会、町村会、農協中央会の四者で構成する新穀献納行事検討四者懇談会が開催され、以下の決定がされた。
<1> 県内を六ブロックに分け、七年で一巡の地域持ち回りとする。<2> 実施対象市町村は農業団体と協議のうえ奉耕主を選定する。<3> 実施主体は奉耕主とする。<4> 献納穀物の米は、近江米振興の観点から県の奨励米あるいは新開発品種とする。粟については、希望があれば献納する。<5> 献納先は宮内庁のみとする。ただし、奉耕主が宮内庁以外に任意献納する先を拘束するものではない。<6> 斎田は特別の造営を行わず、通常の田を利用する。<7> 種子引継式並びに小祭・中祭・大祭(地鎮祭、播種祭、御田植祭、抜穂祭)は原則行わない。<8> 新穀献納検分式は県庁において簡素化のもとに行う。
2 しかしながら、我が国には多様な見解が存在するのであるから、右1のような議会での質問、新聞記事があったからといって、これにより本件支出の違法性を認識すべきであったとすることはできない。
控訴人らはまた、昭和二一年の宮内庁掌典長の通知を指摘する。しかし、この通知の中には、地方公共団体が献納に関連して費用を負担するのを控えるようにとの部分は見あたらないし、被控訴人奥野、被控訴人高木がこの通知を知っていたとの証拠もない。
控訴人ら指摘の事実から同被控訴人らの過失を認めることはできない。
3 かえって次の事実からすると、被控訴人奥野、被控訴人高木には過失はなかったものと認めることができる。
(一) 本件支出のされた昭和六〇年当時には、地方自治体、国の宗教的行為への関与を憲法違反とした最高裁判所判例は全く存在せず、かえって最高裁判所大法廷の津地鎮祭判決(昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日判決・民集三一巻四号五三三頁)は津市が地鎮祭において、神事を行った神職への報奨金や供物料金の支払を合憲とする判断を示していた。
(二) 政府の見解でも、献納に関連して費用を負担することが違法であるとか、慎重な対応を求める趣旨のものは見あたらなかった。
(三) 当時は宮中献納に関連して九の府県が、宮中献納以外の献納行事に関連して七の府県が公費を支出していた。
(四) 本件の行事の目的には、農業を振興し、皇室に対する親愛感を助長することもあって、これらの目的は合憲正当なものと考えられる。これらの目的も存することから、全体として憲法に違反するかは簡単には判断できるものではない。
(五) 新穀献納行事検討四者懇談会の検討結果は、本件公金支出当時の被控訴人奥野、被控訴人高木の認識とは時点が異なり、同人らの認識を推認させるものではない。
七 総括
以上判断のとおり、近江八幡市の本件公金支出は、憲法二〇条三項に違反するものであるが、支出当時、被控訴人奥野、被控訴人高木には、故意過失が存しなかったから、同被控訴人らに対する請求は理由がない。
滋賀県の本件公金支出は、違法とは認められないうえ、被控訴人花房の責任は免除されているから、被控訴人武村、被控訴人花房に対する請求は理由がない。
よって、請求を全部棄却した原判決は、結論において相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴費用の負担につき民訴法六一条、六五条を適用して主文のとおり判決する。
近江八幡新穀献納事業経過表〔略〕
(裁判長裁判官 井関正裕 裁判官 前坂光雄 裁判官 三代川俊一郎)